NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/10


八橋人形 Yabase-ningyou 

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 八橋人形(やばせにんぎょう)は素朴な土人形で、江戸時代後期に京都伏見の人形師が秋田市八橋に伝えたとされる。その昔、町内にある天神様を祀る菅原神社の縁日で売られ、境内には人形屋が軒を連ねたという。
 男の子が生まれると天神人形、女の子が生まれると雛人形を求め、家に飾って子供たちの成長を願った。ずっしりとした土の量感と、決して派手ではない彩色が特徴的だ。
 現在、伝統工芸八橋人形を製作するのは、道川土人形店の一軒しかない。ずっと後継者不足に悩まされてきたが、なんとか後継者が決まり、店主はほっと胸をなでおろしている。
 先々代が作った合わせ型に粘土を詰め乾燥させて焼く作業は夏場に、絵付け作業は冬場に行う。絵付けに一番神経を使うのは目を入れる瞬間で、一瞬呼吸を止めて精神を集中させる必要があるという。
 丹念に絵付けされた手作りの土人形のぬくもりが、全国の愛好家の心を癒しているに違いない。
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2008/3/4


花巻人形 Hanamaki-ningyou 

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 花巻人形(はなまきにんぎょう)は、岩手県花巻市の伝統的な民芸品で、粘土で作られる土人形だ。 宮城県の堤人形と石川県の相良人形と並び、東北三大土人形のひとつにも数えられている。
 その興りは、京都の伏見人形や仙台の堤人形の製作技法を伝習した花巻鍛治町の人形師が、享保年間(1716~1735)から作りはじめたといわれている。
 節句に飾る内裏びなをはじめ、恵比寿様や大黒様などの縁起物から金太郎、山姥といった風俗物など多彩に製作されている。また、どの人形も花巻の名にふさわしく梅や桜、牡丹など春の花々が描かれ、素焼きの下地に胡粉を塗って背面は白いままで表面だけを彩色したり、人形を振ったときに音がするよう、中に小石や砂を入れるなどの特徴を持っている。
 その製作は昭和三十年代を最後に一時絶えてしまっていたが、昭和四九(1974)年に復活し、今に至っている。
 個性豊かな形や鮮やかな色彩、柔和な表情で、今も多くの人々に愛されている郷土民芸である。
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2008/2/18


貞照院 Teishou-in 

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 後世の愛知県碧南市発展に繋がったといわれる伏見屋新田(ふしみやしんでん)を、親子二代にわたって開拓したのが三宅又兵衛(みやけまたべえ)という江戸で米穀商を営んでいた人物。その縁者が元禄年間(1688~1704)に草庵を築いた。後に有志が集まり寺としたのが貞照院(ていしょういん)の始まりとされる。
 貞照院の象徴ともいわれる茅葺きの山門は応永年間(1394~1428)に建立され、碧南市に現存する建造物の中では最古のもの。
 二二四一冊の経典が納められている経蔵(きょうぞう)は天明五(1785)年頃に建立されたと伝えられる。毎年夏には大蔵経の供養の後、経典の「虫干し供養」が数日にわたって多くの参詣者達によって行われる。
 貞照院はまた秋の紅葉の名所としても親しまれている。
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2007/12/10


御殿稲荷 Goten-inari 

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 御殿稲荷(ごてんいなり)は静岡県熱海市中央町にある稲荷神社である。
 江戸幕府三代将軍・徳川家光は、家康も湯治をしたというこの熱海に、湯治御殿を造らせた。その際に御殿の鬼門除けのために京都伏見稲荷神社より分祀して建てたのがこの「御殿稲荷」である。しかし多忙のためか、実際には家光は湯治御殿をつくったものの、一度も湯治には訪れなかったという。その代わり、熱海大湯の湯は頻繁に江戸城本丸、西の丸に届けられるようになった。こうして熱海の湯は、将軍家ご用達になっていく。
 この稲荷神社の近くには、天平勝宝元(749)年、少彦名命(すくなひこなのかみ)の神託により建てられた湯前神社(ゆぜんじんじゃ)があり、毎年二月一〇日と一〇月一〇日に「献湯祭」が行われている。この祭りは、江戸時代、毎年数回行われた将軍家へ温泉の湯を献上する「湯汲み道中」の故事に因んで始まった祭りである。
 御殿稲荷は春には桜花も美しい、徳川家光ゆかりの社である。
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葛見神社の大楠 Kuzumijinja-no-ookusu 

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 葛見神社(くずみじんじゃ)は、静岡県伊東市馬場町にある神社である。祭神は葛見神(くずみのかみ)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、大山祗命(おおやまつみのみこと)。
 およそ900年前、葛見庄初代地頭・伊東家次が京都伏見稲荷を勧請合祀して社殿造営したと言われ、伊東家の支配地にあり、伊東家の崇敬篤く、延喜式神名帳にも記載されている古社である。
 大楠(おおくす)は、葛見神社境内にある目通り幹周り20m、樹高25m、樹齢千数百年の老木で、天然記念物に指定されている。
 全国第二の大楠で、千古の思いを湛えてそびえるその姿は、今なお力強さと勢いがある。目通りよりも広がっているので巨大感があり、木というよりは、巨大な岩を見るような迫力がある。
 葛見神社の大楠は、歴史を感じされる素晴らしい巨樹である。
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2007/10/12


福山城 Fukuyama-jyou Fukuyama Castle

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 福山城は、広島県福山市丸之内にあった城である。日本100名城に選定。国指定史跡である。
 元和五(1619)年、徳川家康のいとこである初代福山藩主、水野勝成が、徳川幕府からの命で西国鎮護の拠点として築城したのが福山城である。
 以後福山藩の藩主は、水野氏、松平氏、阿部氏と続き、明治維新に至るまで藩主の居城であった。
 廃藩置県後、明治六(1873)年に廃城となった。
 国宝であった天守と御湯殿は、昭和二〇(1945)年、米軍の空襲により焼失した。昭和四一(1966)年、天守、月見櫓、御湯殿が同時に再建されている。
 現存する伏見櫓、筋鉄御門(すじがねごもん)は、国の重要文化財に指定されている。
 福山城は、江戸時代建築の、最も完成された形の名城として、今にその姿を残している。
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2007/9/14


宮崎 幸福神社 Miyazaki Koufuku-jinja Kofuku Shrine in Miyazaki

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 日向市にある「幸福神社(こうふくじんじゃ)」は、富高陣屋の鎮守稲荷として、安永五(1776)年正月に伏見の正一位稲荷五社大名神の分霊を祀ったとされる。富高陣屋は、日向天領を治めた日田代官所の出張所であった。揖斐富治郎(いびとみじろう)代官はその陣屋の鬼門除けとして、この神社を勧請したとされる。
 後の明治元年、町内の天神社その他の社を合わせ、大国主神(おおくにぬし)、事代主神(ことしろぬし)、宇迦之御魂神(うかのみたま)、少名彦神(すくなひこのかみ)、岩永姫命(いわながひめのみこと)、菅原道実公を合祀した。
 食物の神であり農耕農作の神である稲荷を幸とし、大国主神は福の神であることから福として、幸福神社と名づけたと伝えられている。
 神社の境内には、樹齢百十数年といわれる珍しい夫婦楠がそびえ立ち、神社の名に相応しいシンボルともなっている。その名前にあやかり、幸せを願う参拝者が多く訪れる。
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2007/9/11


館腰神社 Tatekoshi-jinja Tatekoshi Shrine

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 弘仁二(811)年に僧・空海がこの地に弘誓寺(ぐぜいじ)を創建するため、京都の伏見稲荷を分霊して作られたのが館腰神社(たてこしじんじゃ)である。弘誓寺の隣にある小高い丘に鎮座しており、奥州街道沿い、岩沼阿武隈の「要所」という意味でこの辺りが「館の腰」と呼ばれいたことから、館腰神社の名がついたという。
 ご祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)大宮姫神(おおみやひめのかみ)猿田彦神(さるたひこかみ)で、昔からこの地方の鎮守として知られる古神である。明治二年、神仏習合禁止により弘誓寺と分離した。
 この神社の入り口には、大正一三年建立の灯籠がある。お狐さまの入った灯籠を、四人の力士が支える珍しいものである。境内の石段を上がると山門や拝殿、本殿があるが、社殿はどれも昭和になってから造営されたものである。
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