NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/4/9


湧洞湖 Yuudou-ko 

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 湧洞湖(ゆうどうこ)は、北海道の帯広南東の海岸線にある湖。太平洋とつながっており、周囲約12kmの広さを持つ自然の宝庫だ。
 湧洞湖は海、山を一望できる自然に恵まれた湖である。周辺は鳥獣保護区域のため、たくさんの野鳥や水鳥が生息しおり、バードウォッチングにも最適だ。また、湖畔は原生花園で、ハマナスやヒオウギアアヤメなどのピンクや紫の可憐な花々を観察することができる。釣りにも適した湖で、一年を通して釣り人たちで賑わいを見せている。マリンスポーツも盛んで、水上バイクやカヌー等で遊ぶ若者たちの姿が見られる。
 湧洞湖は、豊かな自然の命をはぐくむ、母なる湖である。
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2007/12/28


小沢式三番 Ozawa-shikisanba 

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 桧原村小沢地区に古来より伝わる「小沢式三番(おざわしきさんば)」は、鎮守である伊勢清峯神社(いせせいほうじんじゃ)の秋の例祭に行われる神事で、能の「翁」を歌舞伎舞踊化したものだという。関東に伝わる式三番は小沢地区の他にはニヶ所のみで、珍しい神事である。
 この歴史は古く、約三〇〇年前に一度途絶えたとされるが、甲州郡内地方から師匠を頼んで復活させたとされる。現存する翁の衣裳には明和七(1770)年八月吉日の日付が、面箱蓋には安永三(1774)年という年号がそれぞれ銘記されている。
 神事を行うに当たって、三役は別火斎戒(べっかさいかい)という、食事など全ての事を女性の手を借りずに自ら行って、一週間身を清める慣習が今も残っているという。
 五穀豊穣などを祈願するこの古式ゆかしい神事は、都の無形民俗文化財の指定を受け、地元の若者衆たちによって今も伝えられている。
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小河内 鹿島踊 Ogouchi Kashima-odori 

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 小河内神社(おごうちじんじゃ)は、奥多摩湖と呼ばれる小河内貯水池建設の際に水没した地区に祀られていた、九社十一祭神を勧請して創建された。都民の水の護り神ともいうべき神社である。
 その小河内神社創建以前から、集落の氏神であった加茂神社にて、祇園踊と呼ばれる民俗芸能が披露されていたという。
 水没以降は、小河内神社の秋の例祭にかつて住んでいた人々が集まり、河内鹿島踊(おごうちかしまおどり)を奉納するようになった。
 小河内鹿島踊はこの地独特のもので、本来は女装した若者衆が踊るものだという。元村民の高齢化が進む中、国の無形文化財にも指定されている伝統芸能を、絶やしたくないという強い気持ちで、次世代へ伝えようとしている。
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白丸の獅子舞(元栖神社獅子舞) Shiromaru-no-shishi-mai(Motosu-jinja-shishi-mai) 

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 白丸の獅子舞(しろまるのししまい)は、白丸地区の鎮守の元栖神社(もとすじんじゃ)の八月の例大祭において、村内各社寺に奉納される伝統芸能である。
 この地区には多くの獅子舞が伝えられており、それぞれ三〇〇年以上の歴史を持つとされているが、起源は明らかにされていないという。明治半ば頃に、一時廃絶した白丸の獅子舞だが、明治の終わりから昭和にかけ、若者衆が中心となり先人達の教えを受け復活、今に伝えられているという。
 三匹獅子という形に加え、道明一名、囃子方二名、笛五名、棒使い二名によって、「神立ち」「場狂い」「洞入り」などの演目が次々と披露される。
 早朝から夕方まで、小さな集落の住民たちが参加し、天下泰平・五穀豊穣・家内安全を願って行われる祭りである。
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2007/12/14


徳重神社 Tokushige-jinja 

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 徳重神社(とくしげじんじゃ)は明治四(1871)年、廃仏毀釈で取り壊された妙円寺(みょうえんじ)の跡地に創建された。妙円寺に引き継ぎ、一七代藩主・島津義弘公を祀っている。
 島津義弘は、生涯五二度の合戦をくぐりぬけ八五歳で没した。朝鮮の役では一〇倍の規模の敵軍を打ち負かし、「鬼石曼子(おにしまづ)」と呼ばれ多数の功績を挙げたが、関ヶ原の合戦では、敵中突破のすさまじい退却戦となり、犠牲者の多い最も苦しい戦となった。
 徳重神社の本尊には義弘公の出家姿の木像がご神体として安置されている。 
 毎年一〇月の第四土日には、鹿児島市の照国神社から若者たちが鎧兜に身を包み、二二番まである歌を口ずさみながら神社に向かって練り歩く妙円寺参が行われている。
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私学校跡 Shi-gakkou-ato 

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 鹿児島県の史跡として知られているのが、鹿児島市の城山町にある「私学校跡(しがっこうあと)」である。
 征韓論争に敗れたあと、政府の職を辞して鹿児島に帰った西郷隆盛が、西郷を慕ってついてきた若者たちに懇願され、明治七(1874)年、鶴丸城の厩(うまや)跡にこの学校を創立した。生徒の数は約八百人で、一二〇畳敷きの大講堂だったという。さらに市内には一〇を超える分校が設立され、県下に一三六の分校もつくられた。
 しかし明治一〇(1877)年、血気にはやった若者たちが明治政府軍の弾薬庫を焼き討ちし、西南の役が始まった。九月一七日に私学校は焼失し、同二四日、新選旅団によって陥落させられたが、この時、政府軍のすさまじい攻撃を受けた砲弾の跡が、私学校跡の石べいにたくさんの残され、当時の激しい戦いの様子がうかがえる。
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2007/12/3


四天王寺 どやどや Shitennouji Doyadoya Shitennou-ji Doya-doya Festival

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 四天王寺(してんのうじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある和宗総本山の寺院である。本尊は救世観世音菩薩で、西国三十三箇所番外、摂津国八十八箇所25番、聖徳太子霊跡1番札所とされている。
 推古天皇元(593)年、聖徳太子自らが建立した古刹である。
 どやどやは、天長四(827)年に修正会(しゅしょうえ)をはじめたのが起源とされ、日本三大奇祭に数えられている。
 元旦から始まる修正会は、その年の吉祥を祈り、天下泰平・五穀豊穣を祈願するもので、毎年一月一四日が結願日となっている。
 赤と白の二組に分かれた、鉢巻きとまわしをしめた裸の若者達が護符を奪い合う勇壮な行事で、その後に護符を受けようと、どやどやと群衆が集まる事から「どやどや」と呼ばれるようになった。
 四天王寺のどやどやは、今日でも盛況な伝統の神事である。
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2007/11/12


伊崎の竿飛び Isaki-no-saotobi Izaki Pole Diving

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 伊崎の竿飛び(いさきのさおとび)は、滋賀県近江八幡市白王町の伊崎寺にて毎年8月の第1日曜に行われる行事である。
 伊崎寺は、貞観年間(859~877)に開基されたと伝わる天台宗の寺院で、琵琶湖に突き出た小さな半島の先端に建っており、修行道場でもある。
 竿飛びは、今から約1100年前にこの寺で修行中の建立大師が、寺の眼下に広がる琵琶湖に空鉢を投げて、湖上を行きかう漁民たちに喜捨を乞い、その後自ら湖中に飛びこんで空鉢を拾いあげた、という故事に基づくと言われている。
 行事では、琵琶湖上に突き出た長さ13mの角材から、若者らが約7m下の湖面に飛び込む。強い日差しのもと、水しぶきをあげ豪快にダイビングする姿に、見物客からは盛んな拍手が送られる。
 伊崎の竿飛びは、荒行から生まれた厄除祈願・度胸試しの歴史ある伝統的行事である。
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