NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/8/6


本美濃紙 Hon-mino-shi Hon-Mino Gami (Genuine Mino Paper)

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 本美濃紙(ほんみのし)は、平安末期から鎌倉時代にかけて、中国よりもたらされた製紙技術である。
 良質の茨城県産の那須楮(なすこうぞ)を原料とし、縦ゆりに横ゆりを伴った紙漉き操作による伝統的方法で漉かれた紙を本美濃紙と称する。
 日本に存在する最も古い紙は、正倉院に眠る大宝二(702)年の美濃、筑前、豊前国の戸籍用紙で、中でも本美濃紙による用紙は漉きムラがなく、優れた技術であったことを今に伝えている。
 江戸時代には障子紙として最上と評価、長く親しまれていくこととなる。障子紙は日光に透かされて鑑賞されるため、繊維がムラなく美しく漉き上げられる本美濃紙はまさにうってつけだったのである。
 現在は障子紙を中心として、記録用紙や文化財保存修理用紙などにも用いられ、その質の良さと味わいの深さで多くの人に愛される逸品である。岐阜の本美濃紙保存会が昭和五一(1976)年に重要無形文化財の指定を受け、今もその技術を後世に伝えている。
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2007/7/30


富田の清水 Tomita-no-shitsuko 

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 富田の清水(とみたのしつこ)は、津軽四代藩主・信政が、越前の紙漉法を導入した際に、紙を漉くのに適していることから、この清水を使わせたのが始まりとされる。昭和初期まで紙漉に使われていたが、その後は生活用水としても使われ続けた。
 弘前の市街地に、その水屋が現在も残っている。水槽は六つに分けられ、一・二番目は飲用、三番目は米や青物の洗いと洗面用、四番目は紙漉の材料や漬物を漬け、五・六番目は洗濯、足洗い等の使用の決まりが定められていた。富田の清水は現在でも飲用が可能で、お茶やお料理に利用するため、地元の人たちが日常的に利用している。
 昭和六〇年に国指定の名水百選に選定された清水は、今も人々の生活を潤わせ、憩いの場を提供しつづけている。
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2007/6/18


岩野市兵衛(人間国宝) Iwano Ichibee Ichibee Iwano (Living National Treasure)

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 昭和八(1933)年、福井県今立町生まれ。越前奉書製造で有名な人間国宝、八代目岩野市兵衛の長男として生まれる。九代目の自身も平成十二(2000)年に人間国宝に認定され、親子二代での人間国宝受賞となった。
 先代の市兵衛氏の漉く奉書は、広く内外の版画家から支持されピカソも愛用していたという。
 職人気質は父譲り、毎日ひたすら紙漉きを続けて六十余年、ただただいい紙を、という一念で仕事をしてきた。氏の漉く紙は腰が強く、どうやっても裂くことができないくらい丈夫。画家の精密な筆先でも絵の具が滲むことはない。
 葛飾北斎の極薄の版画用紙を漉いたこともある。復刻版画はバレンを何百回もかける。それに耐える紙を漉くのは難しいが、「挑戦するときは職人の血が騒ぎますね」と氏は穏やかに笑う。根っからの職人魂は、父をも超えた。
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2007/2/12


小原和紙工芸 Obara-washi-kougei 

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 小原和紙は、愛知県豊田市に伝わる、伝統工芸品。
 1496年、隣村の加茂郡から、三玄寺を建立するために訪れた僧侶が、農民たちの副業として紙漉きを教えたのが始まりといわれている。
 江戸末期には、障子紙やお札紙、三河森下紙という番傘用の紙などを生産していた。
 大正時代に入ると、紙漉き業の家が減少、小原製紙副業組合を結成し生き残りを図ってきた。
 昭和7年、愛知出身工芸家藤井達吉がこの地に訪れ、素朴な紙漉きに共感、共に努力と苦労を重ね、今の小原工芸和紙を築き上げた。
 地元には和紙のふるさとと呼ばれるギャラリーがある。字すき、葉すき、絵すき、うちわの4種の技術があり、製作体験などができる。
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2007/1/25


吉野手漉き和紙 Yoshino-tesuki-washi Yoshino Handmade Japanese Paper

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 奈良県の代表的な伝統工芸である「吉野手漉き和紙」。宇陀(うだ)紙、美晒(みす)紙、国晒(くず)紙とも呼ばれ、すぐれた風合いとねばりの強さが特徴だ。奈良県の伝統工芸品にも指定されている。
 歴史は千三百年以上前に遡る。壬申の乱(672年)において吉野で兵を挙げた大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が国晒(くず)の郷人に紙漉きを教えたのがはじまりと伝えられる。
 吉野の紙が世に広まったのは、江戸時代に入ってから。大和宇陀町の商人が、全国的に売りさばいたため、「宇陀紙」と名づけられ、表装裏打ち紙として重宝されたのだとか。
 吉野の手漉き紙は、非常に薄くて丈夫。現在では、12戸の紙漉き家が伝統の技を守り抜き、表装用中裏紙や書道用紙、国宝修理用の紙を作り続けている。
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2007/1/24


越中和紙 Ecchu-washi Ecchu Japanese Paper

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 北アルプスの山麓から湧き出る名水に恵まれた越中地方は、昔から紙漉きが盛んだった。「越中和紙」と呼ばれる和紙は、丈夫で腰があり、古典的な障子紙、半紙、提灯紙、近代的な書画、版画用紙や100種類にもおよぶ染紙など多岐に渡る製品に使われている。
 古くは奈良時代に書かれた「正倉院文書」などの古文書に越中国紙(えっちゅうのくにがみ)についての記録が残っている。また、平安時代に書かれた「延喜式(えんぎしき)」にも、税として納める作物として和紙が記されるなど、きわめて歴史は古い。
 越中和紙は全国的に見ても若い後継者に恵まれ、伝統的な楮(こうぞ)紙や染紙などの古典的な和紙はもとより、新しい工芸和紙や和紙加工品、観光土産品などの商品開発にも積極的に取り組んでいる。
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2007/1/23


桂樹舎 Keijusha Keijusha Paper Mill

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 山麓から湧き出る名水に恵まれた越中八尾は、江戸時代の元禄年間から良質の和紙作りが盛んであった。「八尾和紙」と呼ばれるその和紙は、丈夫で腰があるため、主に「富山の薬売り」の膏薬紙、袋紙、包装紙などに用いられたという。現在でも財布や手提げ袋などの加工品として使われている。
 「桂樹舎」は、この八尾和紙の伝統を守る製造所のひとつ。和紙展示館の「和紙文庫」を併設している。日本に限らず世界の紙を、「工芸品」という視点で選んだ品々に重点を置く和紙展示館だ。
 館内は4室に分かれ、紀元前1000年のパピルスをはじめ、紙の発展過程を紹介するとともに、日本の古写経から、江戸期以降に発達した和紙を材料とした加工品の生活必需品を数々展示している。
 隣接の製造工房では、和紙の製造工程の見学や紙漉き体験もできる。
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2007/1/17


五箇山相倉集落 (世界遺産) Gokayama-ainokurashuraku Ainokura Village, Gokayama

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 「五箇山相倉集落」は、富山県の西南端、岐阜県境の山あいに残る、庶民の山村生活の姿を今に伝える合掌造り(がっしょうづくり)集落だ。その昔、平家の落人たちが住み着いたとされる。現在約30戸の家屋があり、今でも約80名が生活しているという。
 「合掌造り」とは、日本有数の豪雪地帯で知られる白川郷・五箇山地方で特徴的に見られる急傾斜の切妻造り・茅葺きの民家のこと。広い屋根裏では養蚕が行われていた。近世では五箇山地方では米が取れなかったので、煙硝、養蚕、紙漉きを生業としていたのである。
 相倉集落の合掌造りの多くは江戸時代から明治時代に建てられ、最も古いものは17世紀に遡ると言われる。ブナの生い茂る山々の緑を背景に屹立する茅葺の三角屋根と水田、畑、石垣などが美しい山村風景を織り成す。
 平成6年には重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成7年には世界遺産に登録された。
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