NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/1


世阿弥 Zeami Zeami

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 世阿弥(ぜあみ)は、室町時代初期の猿楽師である。実名は、元清。
 貞治二(1363)年、大和猿楽の有力な役者であった観阿弥の子として生まれる。幼名は、鬼夜叉。通称は三郎。
 12歳の時、観阿弥が今熊野で行った猿楽能に出演し、当時18歳の3代将軍足利義満に気にいられ、以後庇護を受ける。連歌師でもあった摂政二条良基から藤若という名を賜るなど、武家や貴族の文化に触れつつ自らの美意識を昇華させ、父観阿弥とともに能を大成させた。父の死後、観世太夫を受け継ぐ。世阿弥という名は、仏教の教派の一つである時宗の法名である世阿弥陀仏からきている。
 『風姿花伝』『花鏡』など多くの伝書を残し、「秘すれば花」に代表される美学は、600年を経た今でも鮮烈な輝きをもっている。
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2007/10/1


天恩寺 Tenon-ji Tenonji Temple

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 愛知県額田郡額田町大字片寄字山下にある臨済宗妙心寺派の寺。
 戦勝祈願がかない、この地に寺を建立する願を生前になし得なかった足利尊氏の意をくんだ三代将軍足利義満が、貞治元(1362)年見性悟心禅師(けんしょうごしんぜんじ)に命じて天恩寺(てんおんじ)を建立した。
 城門のような豪壮さのある山門「薬医門」をくぐり境内に入ると、禅宗独特の放生池があり、橋を渡ると仏殿が見えてくる。仏殿は反りのはげしい唐模様の建築であり、国の重要文化財である。
 天恩寺には大杉があり、家康公見返りの大杉といわれている。そのいわれは、戦勝祈願に寺を訪れた家康が、このあたりで突然延命地蔵菩薩から「家康、家康」と呼び止められ、振り返ると大杉の後ろから刺客が矢を射る寸前であった、という伝説に基づくものである。幸いにも難を避けられた家康は、大杉を幾度も幾度も振り返り、戦場へ向かっていったと言われている。
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2007/9/14


高月院 Kougetsu-in Kogetsuin Temple

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 高月院(こうげついん)は、徳川家の始祖松平親氏(ちかうじ)、泰親(やすちか)の菩提寺として知られる。境内にある松平家墓所は、周囲を石製の塀で囲んでおり、葵の紋が刻まれた扉がつけられ、中央に親氏、そして泰親、親忠夫人の墓が並んでいる。
 高月院はもともと「寂静寺(じゃくじょうじ)」ともいい、貞治六(1367)年に足助重政(あすけしげまさ)が、親氏の妻の父親である在原信重の援護を受けて建立した。永和三(1377)年、松平親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔を寄進してから「高月院」と改め、松平氏の菩提寺となった。
 その後、慶長七(1602)年、徳川家康によって寺領百石が与えられた。寛永一八(1641)年、三代将軍家光により山門や本堂が再建され、明治維新まで徳川将軍から厚い保護を受けてきた寺である。
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2007/5/25


函館 称名寺 Hakodate Shoumyou-ji Shomyoji Temple

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 函館の称名寺(しょうみょうじ)は、北海道函館市船見町にある浄土真宗の寺である。本尊は、阿弥陀如来像。
 正保元(1644)年、僧・円龍が亀田村に阿弥陀如来像を祀り、阿弥陀堂と称したのが開創とされる。
 幕末に函館が国際貿易港となると、寺は英・仏の領事館として使用され、箱館戦争時には新選組が屯所として利用した。
 三門を入ると大きなイチョウの木があり、その脇に土方歳三と新撰組隊士らの供養碑がある。他にも豪商・高田屋嘉兵衛の墓や初代箱館館主・河野加賀守政通の供養碑など、多くの著名人の墓がある。
 本堂は、防火を考慮して再建されたコンクリート製で、円空仏や珍しい宝物が収納されている。
 函館の称名寺は、北海道最古の石碑「貞治の碑」も保存されている、様々な所縁のある古刹である。
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2007/4/16


常称寺 Joushou-ji Joshoji Temple

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 常称寺(じょうしょうじ)は、広島県尾道市に所在する古刹。本堂と観音堂などが県の重要文化財に指定されている。
 建築は古く、鎌倉時代に遡る。正和二(1313)年に遊行二代他阿真教上人の開基と伝えられる。
 重要文化財の本堂は須弥壇(しゅみだん・仏像を安置する台座)に貞治五(1366)年の銘があることから南北朝時代、14世紀頃の建立と考えられる。中央に方三間の内陣と須弥壇を、三方に脇陣と外陣が建つ。頭貫(かしらぬき・柱の上部を連結する頭柱)から上の様式が創建当初の南北朝時代の形式をよくとどめている。
 常称寺は足利尊氏が暦応三(1340)年に伽藍を整備するも、文和元(1352)年に兵火により本堂を残して焼失、翌年に総門、客殿が再建されたと言われる。
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