NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/30


精好仙台平 Seigou-sendai-hira 

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 精好仙台平(せいごうせんだいひら)は、生糸の性質をそのまま引き出す独自の技法によって独特の光沢を放つ、藩政時代から続く伝統的な織物である。
 元禄の頃、仙台伊達藩の四代目藩主である伊達綱村が、郷土産業振興のために京都の西陣より織物師を召抱え、法被や袴、能装束、兵具などを織り出させた。その後も代々藩主の手厚い庇護を受け、織物業が発達していく過程で考案されたものとされる。昭和三十一年には、手動織機による精好仙台平が重要無形文化財に指定された。
 その織り上げは精巧を極め、一般的な絹織物よりも多いおよそ三十もの工程を経て生み出される。また、製作における過程のいくつかは一子相伝、門外不出の秘伝とされている。
 そうして織られた仙台平は、座れば優雅なふくらみを保ち、立てばさらりと折り目が立ち、激しい舞の動きなどでも、さわやかですらある衣擦れの音と共に軽々と足裁きに従う。そうした質の高さから、格式高い武士の間で「日本一の袴、仙台平なり」と賞賛されたという。
 
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2008/7/10


束帯 Sokutai Sokutai

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 束帯(そくたい)とは、平安時代以降の天皇以下、公家男子の正装である。昼装束(ひのしょうぞく)ともいわれる。
 「論語」公治長篇の「束帯して朝に立ち」という言葉から取った名称で、帯で束ねた衣服の意があり、装束一揃いをさす。
 構成は、冠を被り、下着の上に単(ひとえ)を着、紅の大口袴と表袴(うえのはかま)をはいて衵(あこめ)、下襲(したがさね)、長い裾(きょ)を引き上に袍(ほう)を着て、更に石帯という石飾りのある革ベルトで留める。
 令制における官人の勤務服である朝服が変化したもので、宮中における正装で、武官や中務省の官人、勅許を得た参議以上の公卿は帯剣し、時代の変遷と共に儀式に用いる儀礼的な服となっていった。
 文官の着る縫腋(ほうえき)の袍と、武官の着る活動しやすい闕腋(けってき)の袍に大別される。
 束帯は、伝統ある、日本の天皇・公家・武官が用いる正装である。
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2008/7/9


狩衣 Kariginu 

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 狩衣(かりぎぬ)とは、平安時代以降の公家の普段着である。
 その名の通り、元は野外狩猟用の服で、着用も簡便で運動性も高いものであった。便利なために一般公家の日常着として愛用され、次第に院参にも用いられるようになり、時代を経るに従って公服としての色彩を増していった。
 烏帽子を被り紅の単を着て、指貫袴をはき、狩衣を着るという活動的で、気楽な服として着た装束で、布衣(ほうい)ともいわれた。
 身幅が一幅で両脇を縫わず、前の袖付けも縫わず、背で20cmほど袖を縫ってあり、袖口に括紐をとおしてある。
 藤原期より、機能性に富み若年の日常着として貴族社会の中で広く利用されるようになった。
 ただし狩衣での参内は一切認められず、基本的に狩衣に冠を被る事はなかった。
 狩衣は、現代では神職の常装として着用される伝統装束である。
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2007/12/26


雛人形 Hina-ningyou 

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 雛人形(ひなにんぎょう)の起源は、古くは「形代(かたしろ)」と言われる川や海に人の身代わりとして人形を流して幼子の無事な成長を祈るものといわれ、時代とともに現在の様な形に変化していった。
 形代は三月の上巳の節句に、草木などの簡素な素材の人形(ひとがた)で体を撫でることにより、身の汚れ(けがれ)や災いを移し代わらせてお祓いを行っていたものであるが、天正年間の頃、平安時代の宮中で行われていた「雛あそび」と言われる遊びごとと、この厄除けの習慣が結びついて、「雛祭り」へと変わっていったとされる。
 現在のような平安装束を模した雛人形は、江戸時代には武家の子女の大事な嫁入り道具の一つとなり、次第に華美で贅沢なものになっていった。
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神主 Kannushi 

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 「神主(かんぬし)」は神社において神に仕える神職の長を指し、祭儀や社務を行う責任者である。
 現在は神職と同じ意味で用いられ、職階は「宮司(ぐうじ、みやづかさ)」「権宮司(ごんぐうじ)」「禰宜(ねぎ)」「権禰宜(ごんねぎ)」「宮掌(くじょう)」「出仕(しゅっし)」とある。祭儀や社務を行う神職に当たるのは「権禰宜」以上の者で、「宮掌」や「出仕」は含まれない。
 また、伊勢神宮においては特別で、「祭主(さいしゅ)」「大宮司(だいぐうじ、おおみやづかさ)」「少宮司(しょうぐうじ)」「禰宜」「権禰宜」「宮掌」が置かれている。装束は六等級の身分によって決められており、衣の色で分けられている。
 戦前は男性に限られていた神職も、 戦後は女性も資格を得ればなれる様になった。古くは「かむぬし」や「こうぬし」「しんしゅ」と呼ばれていたが、いずれも祭りを司る祭主や神社における司祭者を意味していた。
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2007/11/9


牡丹色(ボタンイロ) Botan-iro 

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 元は薬用として栽培されていた中国原産の牡丹。その美しく妖艶な花は「花の王」として愛好され、そして多くの歌に詠まれ、絵に描かれてきた。日本国内で文学に登場したのは枕草子が最初だとされている。
 その牡丹の花の色に因んで名づけられた日本の伝統色が、濃い紫紅色を指す牡丹色(ぼたんいろ)である。
 平安時代、宮廷の女官達は着物を何枚も重ね着し、その表に表れる衣色の配列を「重ねの色目」として、草や花に見立て季節などを表現していた。牡丹色はその頃より装束に取り上げられるようになったとされている。明治時代に入り、少しずつ化学染料が使われるようになってから、牡丹色は更に濃く鮮やかな赤紫色に染め上げられた。
 紅とは異なる、紫がかった華やかな色合いの着物は、多くの女性に爆発的な支持を得、愛されたのだと伝えられている。
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2007/11/7


三ケ所神社 Sangasyo-jinja Sangasho Shrine

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 五ヶ瀬町は、宮崎県の北西部、九州のほぼ中央部に位置し、ここに花の名所として知られる三ケ所神社(さんがしょじんじゃ)がある。天孫降臨(てんそんこうりん)の地と伝えられる二上山(ふたがみやま)の祠(ほこら)を、山麓に降ろして建てられた神社で、イザナキとイザナミを主祭神として祀っている。
 創建は昌泰年間(898~901)、元亀二(1571)年に再建された。文化一四(1817)年に建てられた本殿は1本の欅から造られた見事な流造り。当時の名工による手の込んだ木彫が美しい。
 三ケ所神社では春例祭がおこなわれる頃、四月中旬~五月下旬にかけて、境内にあるつくししゃくなげ一万二千本が咲き乱れる。そのほかしだれ桜、椿が満開時見事な姿をみせる。
 また、国の重要無形文化財に指定されている三ケ所神社等に奉納される「荒踊」は、九月最終土曜日に奉納され、戦国時代の武者装束をつけて踊る勇壮な舞として知られる。
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2007/10/16


ケベス祭 Kebesu-matsuri Kebesu Festival

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 ケベス祭は、大分県国東市国見町の岩倉社で、毎年10月14日の宵に行われる奇祭。
起源や由来は一切不明で、「ケベス」は「蹴火子(けべす)」が訛って転じたものだとされるが、詳しいことは謎のままの火祭りである。
 祭り当日の夜、奇怪な面を着けた「ケベス」がサマスタと呼ばれる棒を扇子で叩きながら境内を1周すると、猛然と燃え盛る護摩(ごま)焚きの火に向かって走り出す。それを白装束の「トウバ」が阻止しようとし、ケベスと火をめぐって攻防を繰り返す。そして、トウバが火のついたシダを持ち、境内を走り回り、見物客を追い回す。この火の粉を浴びると、その年は無病息災で暮らせるという。
 ケベス祭は、県指定無形民俗文化財であり、日本屈指の奇祭として注目されているという。
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