NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/14


大平一里塚 Oohira-ichiri-zuka 

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 一里塚(いちりづか)は、慶長九(1604)年、江戸幕府が全国の街道に、一里、3.9キロメートル毎に道の両側に設置し、旅の道しるべや休息地としたものである。約9メートル四方に土を盛り、主として榎(えのき)を植えた。
 大平(おおひら)一里塚は、東海道岡崎と藤川の宿場の間に位置し、塚の大きさは、高さ2.4メートル、横幅6.7メートル、縦右7.3メートル、縦左8.5メートルのひし形をしている。こんもりとした塚に大きな榎が葉をゆらしていて、よく目立っている。塚のみが残っているものは多いが、このようにほぼ現存をとどめている一里塚はめずらしい。
 北側の塚は南側の塚より大きかったが、昭和三(1928)年の道路改修で壊され、代わりに秋葉山に登る人たちの安全を守る常夜灯が建てられた。南側の塚はそのまま残され、昭和一二(1937)年に国指定の史跡となった。
 塚中央の榎は昭和二八(1953)年の台風で倒れ、現在の榎は2代目のものである。
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2008/6/12


桂春院 Keisyun-in 

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 京都妙心寺には四〇余りの塔頭があるが、桂春院(けいしゅんいん)はそのひとつに数えられる。
 慶長三(1598)年、織田信忠の次男・津田秀則によって妙心寺に創建された見性院(けんしょういん)。秀則の死後、寛永九(1632)年に秀吉の家臣であった美濃の豪族・石河貞政が、父・光政の菩提所として見性院に方丈、庫裡、書院、茶室などを整備し、名を両親の法名から一文字ずつ取り、桂春院に改めたという。
 桂春院では江戸初期の作庭といわれる四つの庭も拝観できる。それらは「清浄の庭」「思惟(しい)の庭」「真如の庭」「侘の庭」と名付けられ、国の名勝・史跡に指定されている。
 庭園はそれぞれ違った趣をもち、豊かですばらしいものである。
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2008/5/20


神田祭 Kanda-matsuri 

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 神田祭(かんだまつり)は、江戸総鎮守である神田明神で、隔年の五月一〇日から一五日まで行われる祭りである。
 日枝神社の山王祭、富岡八幡宮の深川八幡祭りと並び、江戸三大祭の一つに数えられ、江戸時代には本社の神輿を江戸城内まで担ぎ込み、氏子でもある将軍の上覧を得たことから、天下祭とも言われている。
 費用の面から天和元(1681)年から幕府の命により、神田祭と山王祭を交代で隔年に行うようになり、それが今も引き継がれて、神田祭の当番の年の祭りを「本祭り」、当番でない年は「陰祭」(かげまつり)と呼んでいる。
 神社本殿から、御祭神の御霊を神幸祭で巡行する神輿へお遷しする「神輿遷座祭」(みこしせんざさい)から始まり、期間中の土曜日に行われ、神田や秋葉原、日本橋など氏子百八町を鳳輦神輿(ほうれんみこし)を中心に様々な山車と共に祭礼行列が巡行する「神幸祭」など、最終日の例大祭まで華やな江戸の天下祭が展開される。
 まさに江戸っ子の、祭に対する粋が凝縮された五日間である。
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2008/5/19


阿波安染 Awayasu-zome 

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 阿波安染(あわやすぞめ)は、大阪府東大阪市にて伝えられる工芸品である。
 江戸末期に、徳島県鴨島の藍農家の次男に生まれた安兵衛が、成人してのち、大阪から仕入れに来ていた藍問屋の紹介で大阪の中河内盾津にあった染物店に奉公し、藍染めの技術を修得した。
 慶応元(1865)年、厳しい修行の末に一人前の藍職人となった安兵衛は、大阪市中河内郡天王寺村に暖簾をかかげ、実家から取り寄せた原料をふんだんに用いて藍染めを始めた。
 その丹念な印染技法と味わい深い色合いはすぐに大阪中の評判となったという。
 阿波安染の特徴は、表裏両面に糊を置き、両面から刷毛で生地に染料液を刷毛で均一に染織する引き染めを行うところで、両面から染め付けるため、深い色合いが出てもちも良いといわれている。
 阿波安染は、今なお当時の風合いを留める伝統的な染め物である。
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2008/4/25


三次人形 Miyoshi-ningyou 

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 三次人形(みよしにんぎょう)は、広島県三次市三次町に伝わる民芸品である。県の伝統工芸品に指定されている。
 寛永一〇(1633)年頃、三次藩主・浅野長治(あさのながはる)が江戸浅草の人形師・森喜三郎(もりきさぶろう)をつれ帰り、歴史上の勇者や伝説上の人物の土人形を作らせ、家臣が一子をもうける度に、祝いとしてこの土人形を贈ったのが始まりとされている。
 にかわを塗る事によって艶やかな光沢があり、別名「光人形」と呼ばれている。特に顔に関しては、磨きだし手法によってその光沢を出している。
 普通、人形は六頭身が多い中で、八頭身の容姿端麗な人形としても有名で、その姿は群を抜いて美しいといわれている。
 三次人形は、現在でも約80種類が造られている、初節句や結婚式の引き出物として大切にされている、歴史ある人形である。
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2008/4/11


天海 Tenkai 

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 天海(てんかい)は江戸時代初期、天台宗の僧。
 天文五(1536)年、会津(現・福島県)生まれ。11歳で出家し、18歳の頃に比叡山に入る。華厳、唯識、禅、儒学や易教、国学を修めた。
 慶長一三(1608)年頃に、徳川家康の知遇を得る。家康の参謀、朝廷との交渉役として活躍。仙波(埼玉県川越市)の北院(喜多院)や江戸崎(茨城県那珂町)の不動院の住職を兼任し、延暦寺や日光山の整備・再興にも従事した。
 仏法と王法の合一を説いた「山王一実神道」の奥義を、天海は家康に伝授する。家康の死後、東照大権現を贈号して、江戸から日光への遷葬を指揮した。遂に家康を日本の守護神に祀りあげた。
 その後も、東叡山・寛永寺の創建や都市計画を指導、江戸鎮護を構想し続けた。108歳で入滅。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。
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2008/3/7


崋山神社 Kazan-jinja Kazan Shrine

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 愛知県田原市にある崋山神社(かざんじんじゃ)は、田原藩家老であった渡辺崋山の遺徳をしのび、田原城の出丸跡に建てられた。
 崋山没後百年を期に崋山神社建設の話が出たが、第二次世界大戦中だったため建設は実行できなかった。昭和二一(1946)年、静岡県引佐町井伊ノ谷宮の仮殿を譲ってもらい、出丸跡に建てたのが始まり。現在の建物は昭和三四(1959)年、伊勢湾台風による崩壊のあと再築された。
 学者・画家・政治家として活躍した渡辺崋山は寛政五(1793)年、江戸の田原藩上屋敷で生まれた。八歳の時、若君のお相手として出仕し、一三歳の頃から朱子学や、陽明学を極めたことから、学芸向上にご利益があると言われている。
 毎年、渡辺崋山の命日となる一〇月一一日に大祭が開催される。同じ田原市にある城宝寺で崋山の墓前に参拝したのち、崋山神社で神事が行われる。
 また、この神社の絵馬には、渡辺崋山の肖像が描かれている。
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2008/3/4


江戸刷毛 Edo-hake Edo Hake Paint Brush

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 刷毛(はけ)はものを塗るための道具として古くから使われてきた。平安時代の文献には、植物のキビの毛を用いて、器や弓矢などに漆を塗っていたことが記されている。
 江戸刷毛とは、江戸の流れをくむ各種職人にとって重要な役割を担ってきた道具で、江戸時代中期に発行された「万金産業袋(まんきんすぎわいぶくろ)」の中で、表具用糊刷毛が「江戸刷毛」として紹介されている。今日、江戸刷毛として指定されているものには、経師刷毛、染色刷毛、人形刷毛、漆刷毛、木版刷毛、白粉刷毛、塗装刷毛の七種類がある。
 今の江戸刷毛には人毛や馬、鹿、山羊などの獣毛と、ツゲやシュロなどの植物繊維が用いられている。クセや脂分のある毛は、職人の繊細な刷毛さばきに大きな影響を与えるため、クセ直しと脂分の除去が大切な工程となる。このため、刷毛づくりの大半はこの工程に費やされる。
 刷毛の命は毛先と言われるように、ムラ塗りが出ない、腰のあるものが優良とされ、素材は刷毛師の目で厳しく吟味される。
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