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2008/6/4


栃尾城 Tochio-jou 

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 栃尾城(とちおじょう)は、新潟県長岡市栃尾にある城跡だ。
 標高228mの鶴城山に築かれた、戦国時代における典型的な山城となっていた。
 その歴史は古く、天平年間(729~748)に防人の在営地として築かれたという伝えがあるが、現在のような縄張りの城になったのは南北朝時代の正平年間(1346~1369年)、足利尊氏の命によるものとされ、馬蹄型の郭を構成し、それぞれの郭の間は空堀で独立させるなど、堅城として有名であった。
 また、上杉謙信が春日山で幼年から青年期を過ごし、跡目争いが起こった際にはこの城が初陣の地となったことでも知られており、戦国末期の慶長一五(1610)年に廃城となるまで、上杉勢の城であった。
 現在でも山には馬場や本丸、二ノ丸といった郭跡や竪堀の遺構など、ほとんどの曲輪が残されており、謙信も見たであろう山頂からの栃尾盆地を一望する絶景と共に、往時を偲ばせている。
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2008/5/22


勝龍寺城 Shouryuuji-jou 

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 京都府の「勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)」は、延元四(1339)年に足利尊氏に属していた細川頼春が北朝方の前線基地として築いた。これは京都盆地の南西部に位置する為である。
 応仁元(1467)年の応仁・文明の乱では、細川勝元を総大将とする東軍に対抗する為に畠山義就が城主となった。戦国時代になると岩成友通が城主になるが、永禄一一(1568)年に織田信長が上洛の際、柴田勝家の軍勢に攻撃され落城。その後、信長から勝龍寺城を与えられた細川藤孝(幽斎)は城の大修築を行なったという。
 この勝龍寺城は、幽斎の子である忠興と明智光秀の三女・玉(珠)が祝言をあげた場所と伝えられている。明智玉は、後にキリシタンとなり、ガラシャという洗礼名のもと、最後までその信念を貫き通したことで知られる。
 天正一〇(1582)年、山崎の合戦で落城、その後に廃城となってしまう。
 現在は本丸などが復元され、「勝龍寺公園」として整備され、人々に広く親しまれている。
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2008/1/22


阿伎留神社祭礼 Akiru-jinja-sairei Akiru Shrine

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 阿伎留神社(あきるじんじゃ)は、東京都あきる野市五日市にある神社である。祭神は、大物主神(おおものぬし)。
 創立起源は未詳であるが、平安時代の延喜式神名帳には武蔵国多摩郡八座の筆頭に上げられ、源頼朝や足利尊氏、徳川家康などからも崇拝されていた社である。
 阿伎留神社祭礼(あきるじんじゃさいれい)は、毎年九月の二八日~三〇日にかけて行われる、秋祭りとなっている。
 祭礼には間口五尺の方形大輪に六角形の胴と、屋根を乗せたきらびやかな御本社大神輿が繰り出し、五日市街道を勇壮に練り歩く。
 また、神輿の担ぎだしの前には必ず露払いとして獅子舞がつき、舞を一庭演じるのが習わしとなっている。
 阿伎留神社祭礼は、江戸時代から連綿と続く、秋川渓谷沿いで行われる由緒正しい祭りである。
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2007/10/31


霊亀山 天龍寺 Reikizan Tenryuu-ji 

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 霊亀山天龍寺(れいきざんてんりゅうじ)は、臨済宗天龍寺派の大本山で、本尊は釈迦如来である。
 暦応二(1339)年、後醍醐天皇が崩御したとき、その菩提を弔うため、夢窓疎石(むそうそせき)が足利尊氏に進言し、創建された寺である。
 至徳三(1386)年に、京都五山の第一位を占め、大いに繁栄したが、度々の火災により堂宇を焼失してしまった。現在の諸堂は、明治以後に再建されたものである。
 大方丈前にある夢窓疎石がつくった池泉回遊式庭園は、室町様式を現在に伝える上で重要な役割をしており、国の特別史跡名勝の第一号に指定された。平成六(1994)年に世界文化遺産に登録された。
 標高三七五メートルある嵐山は、元は天龍寺の境内であった。後醍醐天皇の霊を慰め、吉野より多数の桜が移植されたことから、今では全国的に有名な桜の名所となっている。
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2007/10/17


兵主大社 Hyouzu-taisha Hyozu Taisha Shrine

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 兵主大社(ひょうずたいしゃ)は奈良時代の創建とされている。兵主を「つわものぬし」とも読めることから、朝廷や武士の信仰を集めた。
 美術工芸品などの社宝は武具から仏舎利まで幅広く、神仏習合の名残りを感じさせる。
 来たる人を待ち構えるかのように堂々とした朱色の楼門は足利尊氏の寄進と伝えられるもので、天文一九(1550)年の墨書が残る。格式の高い一間一戸の入母屋造で、左右の均整が美しく、県指定の有形文化財である。
 砂利の参道を歩くと、正面に檜皮葺(ひわだぶき)の拝殿がある。鰐口(わにぐち)に下がる太い朱紐が目を惹く。
 大規模な庭園は平安時代末期のもので、池を中心とし、庭の景観を楽しみながら歩く、池泉廻遊式(ちせんかいゆうしき)である。
 庭園は苔の絨毯で覆われ、梅雨の時期は香り立つような美しさだ。
 また紅葉の名所でもあり、毎年一一月中旬から下旬にかけてライトアップが行われる。
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2007/10/1


天恩寺 Tenon-ji Tenonji Temple

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 愛知県額田郡額田町大字片寄字山下にある臨済宗妙心寺派の寺。
 戦勝祈願がかない、この地に寺を建立する願を生前になし得なかった足利尊氏の意をくんだ三代将軍足利義満が、貞治元(1362)年見性悟心禅師(けんしょうごしんぜんじ)に命じて天恩寺(てんおんじ)を建立した。
 城門のような豪壮さのある山門「薬医門」をくぐり境内に入ると、禅宗独特の放生池があり、橋を渡ると仏殿が見えてくる。仏殿は反りのはげしい唐模様の建築であり、国の重要文化財である。
 天恩寺には大杉があり、家康公見返りの大杉といわれている。そのいわれは、戦勝祈願に寺を訪れた家康が、このあたりで突然延命地蔵菩薩から「家康、家康」と呼び止められ、振り返ると大杉の後ろから刺客が矢を射る寸前であった、という伝説に基づくものである。幸いにも難を避けられた家康は、大杉を幾度も幾度も振り返り、戦場へ向かっていったと言われている。
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2007/8/2


宮城 安国寺 Miyagi Ankoku-ji Miyagi Ankoku-ji Temple

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 安国寺は、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立させたのと同じく、一国一寺の計画で足利尊氏の指揮の下、全国に建立された寺である。
 今もそのほとんどは残っており、宮城県大崎市にある同寺も、その計画の下に全国に建てられた66寺の一刹である。
 国分寺は、各国における文化や教育の熟成を狙って建てられたものだが、安国寺はその考え方は同じながら、元寇以来の戦没者を弔い、国家の安泰を祈願するものとして多少の違いがある。寺の名前の由来ともなった「安国利生」即ち国家安穏衆生利益の祈祷と共に戦没者を弔う事で、日本を一つに纏め上げるために設けられた寺でもあるのだ。
 以降、幾度かの戦火に遭い、そのたびに焼失などしてしまっていたが、仙台藩二代藩主であった伊達忠宗の名により、宝暦二(1760)年に再建され、今に至っている。
 本尊には県の文化財にも指定されている木造阿弥陀如来像が鎮座しており、今も全国に散らばる六六刹と共に、世の中を見つめている。
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2007/5/22


清白寺 Seihaku-ji Seihakuji Temple

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 清白寺(せいはくじ)は山梨県山梨市三ヶ所に位置する臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は海涌山。
 正慶二(1333)年、足利尊氏により招聘(しょうへい)された夢窓疎石により開基と伝えられている。
 天和二(1682)年、火災により本殿以外を焼失したが、元禄六(1693)年に再建された。
 本尊は釈迦如来、本殿は国宝指定の堂宇であり、桁行三間、一重裳腰付入母屋造で屋根は檜皮葺。簡略された造りだが、内部には禅寺には珍しく漆塗と文様彩色が施された鏡天井が設えてある。
 周囲を葡萄畑に囲まれ、参道に梅の花が建ち並ぶことから梅の寺とも呼ばれる。静寂と自然に囲まれた名刹であり、訪れる人の心を安らげている。
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