NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/11


行灯 Andon 

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 行灯(あんどん)とは江戸時代に日本中に広く普及した照明器具である。
 元々は携帯用の灯りとして作られたが、提灯(ちょうちん)の普及とともに行灯は室内や店先に置かれる照明器具として利用されるようになった。
 風で明かりが消えないよう、木や竹、金属で作られた枠に、和紙で作られた火袋が張られている。中には火皿を乗せる台があり、火種には蝋燭が使われることもあったが、江戸時代には高価な品物であったため、菜種油や鰯(いわし)油が多く使われていたという。
 最も普及していた上部に持ち運び出来るように取っ手がある置行灯(おきあんどん)の他、屋号などが書かれてあり、店先に掛けられていた掛行灯(かけあんどん)、小堀遠州の発明ともいわれる行灯自体を回して光量の調節が出来る遠州行灯(えんしゅうあんどん)、枕元に置く有明行灯(ありあけあんどん)などが知られている。
 古き時代は明かりは貴重で大切なものであり、夜の生活は非常に質素なものであったという。
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2008/4/8


高台寺圓徳院 Koudaiji-entokuin 

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 圓徳院(えんとくいん)は、寛永九(1632)年に、北政所ねね(きたのまんどころねね)の次男・木下利房(きのしたとしふさ)により、高台寺の三江和尚(さんこうおしょう)を開基とした寺院である。また、北政所ねねの終焉の地である。
 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の没後、その妻ねねは、「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長一〇(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と、その前庭を山内に移築して移り住んだという。
 それ以来、大名・禅僧・茶人・歌人・画家・陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられている。
 また、小堀遠州(こぼりえんしゅう)作庭による庭園が、臥龍池(がりょうち)と偃月池(えんげつち)を中心に広がり、マツとカエデの木立の下にウマスギゴケが地面を覆っており、方丈前庭の白砂とウマスギゴケの植え込みなどの色彩が楽しめる。
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2008/2/7


茶室 Chashitsu 

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 茶室(ちゃしつ)の歴史は室町幕府の八代将軍・足利義政が、京都大徳寺の一休禅師の門下、村田珠光(むらたしゅこう)と能阿弥(のうあみ)とその子芸阿弥(げいあみ)孫の相阿弥(そうあみ)の四人とともにそれまでとは違う、茶会の作法を編み出した時にはじまる。四人は広い座敷の中に一丈(十尺四方)の屏風で囲み、茶の道具である台子を前に行う台子手前で茶礼を行った。これが茶室のはじまりである。
 村田珠光の時代は書院風茶室であったが、武野紹鴎(たけの じょうおう)の時代には四畳半の茶室がつくられた。その後、千利休の時代になると屋根の形は入母屋から切妻へと変わり、壁も土壁、格子も細竹の連子と草庵の茶室に変わっていき、さらに、三畳から一畳半の広さで行う侘茶の作法と変わっていった。
 その後江戸時代にかけて活躍した古田織部(ふるたおりべ)が床の間をもつ四畳半台目の席を考案し、徳川将軍家の茶道指南役であった小堀遠州が完成させた。
 茶室とは日本文化が作り出した美と意識の交差する空間である
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2007/10/12


志戸呂焼 Shitoro-yaki Shitoro Ware

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 志戸呂焼(しとろやき)は、静岡県島田市金谷(旧金谷町)で焼かれている陶器である。
 16世紀の室町時代末期に、美濃の陶工が志戸呂郷に窯を築いたのが始まりといわれ、天正一六(1588)年には、徳川家康より焼物商売免許の朱印状を授けられ、江戸時代初期にかけて広がった。
 茶人大名として名高い小堀遠州が「遠州七窯」の一つに志戸呂窯を数えた事から、一躍天下にその名を知られるようになる。
 志戸呂焼は、渋みと深みがある古式豊かな風情を漂わせている焼物である。素朴な色合いで、飾る花や他の器などとの取合せを気にさせないのが特徴といえる。
 名器と呼ばれる壺の裏には「祖母懐」や「姥懐」の刻銘がある事は有名である。
 志戸呂焼は、堅牢で湿気を寄せ付けない性質で、現在も茶壺や茶器を中心に焼かれている。
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2007/6/7


八窓庵 Hassou-an Hassoan Tea House

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 八窓庵(はっそうあん)は、北海道札幌市中央区中島公園の日本庭園内に佇む茶室である。
 昭和二五(1950)年、国の重要文化財に指定されている。
 江戸時代の大名茶人・小堀遠州が晩年に、現在の滋賀県に建てた草庵風の茶室で、遠州の居城であった近江国小室城内にあったと伝えられる。
 八窓庵は、二畳台目の茶室で、8個の窓を備え、席名もこれに基づいている。8つの窓が狭い空間を広々と立体的なものにしており、窓の配置も工夫されている。
 大正時代に札幌市の実業家が譲り受け、その時に三分庵という茶室を増築して今の姿になった。
 昭和四六(1971)年、札幌市に寄付され、中島公園内の日本庭園に移設された。
 八窓庵は、市内でも最も古い日本建築の一つであり、公園の象徴とも言える歴史ある建物である。
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2007/5/10


高台寺庭園 Koudai-ji Teien Kodaiji Garden

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 現代を代表する庭師・北山安夫が修復した高台寺(京都市東山)の庭園は、江戸時代初期に活躍した作庭家の小掘遠州が手がけた庭である。  
 しばらく手入れがされていなかった庭の修復を担うにあたり、北山は「小堀遠州が当時どのような思いで作庭に挑んだのかと考え、修復に努めた」という。その庭は訪れる人の気持ちを包み込むような配慮がなされ、中でも開山堂に臨む庭と二つの池は静かな美しさにあふれている。東山の麓まで続く庭が紅葉する頃と、桜の時期が特に見ごろ。
 また、京都の寺院の先陣を切って高台寺が始めた期間限定ライトアップには、その幻想的な庭を楽しむために大勢の観客がつめかける。北山はこのライトアップの監修も手がけている。
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2007/4/19


大鐘家住宅 Oogane-ke-jyuutaku The Ogane Family’s Residence

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 大鐘家住宅は、静岡県牧之原市片浜にある旧家の民家である。母屋と長屋門は国の重要文化財に指定されている。
 大鐘氏は、戦国時代には柴田勝家の家臣であった。江戸時代中期から末期までの間、この地方の大庄屋となり、また豪農として3000石以上の格式を持っていた。
 手斧造りの母屋は、慶長2(1597)年頃の建築といわれている。母屋の横には、小堀遠州作と伝わる庭園もある。
 長屋門前には1万2千本のアジサイ、3千本の花菖蒲が咲く「あじさい庭園」もあり、5月下旬〜7月上旬には「あじさい祭」が開催される。
 米蔵を改装した蔵の資料館は、宝物の展示やギャラリーとして使用されている。
 大鐘家住宅は、江戸の暮らしを今に残す古民家である。
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2007/3/15


森山焼 Moriyama-yaki Moriyama Ware

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 森山焼は、静岡県周智郡森町で焼かれる陶器である。
 森山焼は、明治42年、瀬戸焼を再興した加藤藤四郎の話に感化された初代中村秀吉によって創設され、森山の地名から森山焼と命名された。
 最初は祖陶器(土管・水瓶)から出発し、失敗を重ねながらも、一般家庭用の茶器・花器・酒器・食器などの小物を焼き、名を高めていった。
 小堀遠州七窯のひとつである志戸呂焼きの流れをくみ、作風は、「炎の芸術」と呼ばれるにふさわしい趣で知られている。
 現在、閑静な森山の麓に四軒の窯元があり、それぞれが特徴ある、深い味わいの森山焼を造りだしている。
 中でも静邨陶房で焼かれる、真っ赤な釉薬を使った赤焼が有名である。
 森山焼は、伝統と味わいの深い工芸品である。
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