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2008/7/11


丙子椒林剣 Heishi-syourin-ken 

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 丙子椒林剣(へいししょうりんけん)は、大阪府大阪市天王寺区の四天王寺にある、長さ65.8cmの日本の直刀である。国宝に指定されている。
 四天王寺は、推古天皇元(593)年に聖徳太子により建立された寺院で、本尊は救世観世音菩薩(くせかんぜおんぼさつ)。
 丙子椒林剣は、聖徳太子の剣と伝わる、7世紀の飛鳥、白鳳時代作と伝えられる切刃造(きりはづくり)の刀である。鎌倉時代から記録があり、当時すでに剣の拵えが無かった事が判明している。
 名前は、太刀の内側である佩裏(はきうら)に、同銘の金象嵌が施されている所からこの呼称になった。言葉の意味は、江戸時代の新井白石によると丙子は干支の一つ、椒林は作者の名だとされるが、諸説あって解明されてはいない。
 地肌が梨の実の切断面のように潤って見える美しい梨子地肌風であり、この時期の上古刀としては現存する最高の出来とされる。
 丙子椒林剣は、七星剣(しちせいけん)と共に聖徳太子愛用と言われる、日本の刀剣である。
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七支刀(しちしとう/ななつさやのたち) Shichishitou-nanatsusayanotachi 

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 七支刀(しちしとう/ななつさやのたち)は、奈良県天理市布留町の石上神宮(いそのかみじんぐう)にある全長74.8cmの鉄剣である。国宝に指定されている。
 石上神宮は、崇神天皇七(紀元前91)年の創祠とされる古社で、祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)。
 七支刀は、六叉の鉾(ろくさのほこ)の名で石上神宮に伝世されてきた鉄剣で、表裏に金象嵌(きんぞうがん)の文字が61ある。
 表の銘文冒頭に泰和四年とあり、これは日本では仁徳天皇五七(369)年にあたるとされる。
 この剣は現在、日本書紀に記されている、神功皇后が朝鮮・百済から献上された七枝刀にあたると考えられている。
 銘文については腐食が激しく、読み取れない字も多くあり、その内容には諸説あるとされている。
 七支刀は、祭祀的な象徴であったとも推測される古代の剣である。
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2008/7/3


七星剣 Shichisei-ken Shichiseiken (Seven Star Sword)

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 七星剣(しちせいけん)は、大阪府大阪市天王寺区の四天王寺が所有している、長さ62.1cmの日本の直刀である。国宝に指定されている。
 四天王寺は、推古天皇元(593)年に聖徳太子により建立された寺院で、本尊は救世観世音菩薩(くせかんぜおんぼさつ)。
 同じく四天王寺所有の丙子椒林剣(へいししょうりんけん)と並び、聖徳太子愛用の剣と伝わる。
 名前の由来は、金象嵌(きんぞうがん)の七星文、つまり北斗七星が描かれていた事による。その他、表に金象眼五飛鳥雲、七星の両側にV字型の三星と横に並んだ三星に青竜と白虎が刻まれ、裏には雲紋と北斗七星・それに青竜と白虎が刻まれている。
 作風は丙子椒林剣にくらべ、スラグと呼ばれる金属の残留物が目立つものの、地金は小板目肌と呼ばれる細かく目の詰まったもので、匂口(においぐち)に大粒な粒子が厚くつき、これに小さな粒子がついた細直刃となっている。
 七星剣は、日本の古代より伝わる貴重な刀剣である。
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2008/3/10


饅頭根付 Manjuu-netsuke 

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 饅頭根付(まんじゅうねつけ)とは、根付のうち、平べったい饅頭の形をしたものをいう。ほとんどが象牙製か木製で、しばしば浮き彫りや漆、象嵌(ぞうがん)といった装飾が施されている。
 根付は、江戸時代にお金を入れるための巾着(きんちゃく)や煙草入れ、矢立て、印籠(いんろう)などの提げ物(さげもの)が帯から落ちないよう、紐で留めるために用いた留め具のこと。おおむね一九世紀半ばまでのものを古根付(こねつけ)、それ以降のものを現代根付(げんだいねつけ)と呼んで区別している。
 江戸時代初期は実用性を重視した簡素なものが多く、時代と共に装飾性も重視されるようになり、江戸時代中期に入って爆発的に流行した。明治時代に入ると海外から高い評価を得て輸出が盛んになり、その後、一時衰退に向かうが、近年になって様々な分野から技術者や多種多様な素材が参入。再び注目されつつある。
 今日は、古根付・現代根付ともに日本独特の文化を伝える美術品として扱われ、特に海外での評価が高い。
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2008/1/24


高田焼 Kouda-yaki 

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 高田焼(こうだやき)は別名・八代焼(やつしろやき)とも呼ばれ、熊本県八代市に四〇〇年以上伝わる焼物である。
 陶工・尊楷(そんかい)は、豊臣秀吉が朝鮮出兵した折に連れてきた、数多くの優れた技術者のひとりである。一度本国へ戻り、高麗焼の技法を身につけた尊楷は、慶長七(1602)年、現在の福岡県北九州市にあたる豊前小倉の藩主・細川忠興に招かれ、上野(あがの)の窯を築いたと言われている。
 その後、細川藩の肥後転封に伴って、尊楷は息子達と共に八代郡高田郷奈良木村に窯を開き、それが後に高田焼と呼ばれるようになったという。
 素地が完全に乾く前に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込む。そして余分な土を削り落とした後に透明な釉薬をかける、白土象嵌(ぞうがん)と呼ばれる特殊な技法が特徴的である。
 高麗の伝統を日本の今に伝える、美しく貴重な焼物である。
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2007/12/4


玉簪 Tama-kanzashi 

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 玉簪(たまかんざし)は、柄に丸い玉がついている簪である。
 簪は、女性が髪を結う時に使う日本の伝統的な装身具であり、特に江戸時代後期には様々な種類の物が作られ、髪を飾った。
 玉簪は、耳掻きをそのまま大きくしたような耳掻き簪に玉を一つ挿しただけのシンプルなもので、最も人気のある簪とされる。
 玉の色により風情が感じとれ、素材には珊瑚、めのう、翡翠、べっ甲、金や銀、更には象嵌からガラスに至るまで様々なものが広く用いられている。
 また、玉の大きさにも二分玉、三分玉、五分玉などの種類があり、大きさによって分類され、売られている。
 先が耳かきになっているのは、装身具ではなく実用品の耳かきだと見せかけて、贅沢品取締りから逃れるためであったという。
 玉簪は、簪の代表とも言える伝統の髪飾りである。
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2007/11/29


日州透かし象嵌 Nissyu-sukashi-zougan Nisshu-Sukashi Zogan

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 日州透かし象嵌(にっしゅうすかしぞうがん)は、寛永九(1632)年、熊本藩藩主、細川忠利に召抱えられた林又七が、鉄砲や刀の鐔(つば)に象嵌を施した「肥後象嵌」の流れをくむ。
 鐔とは刀剣の柄と刀身との境に挟んで、柄を握る手を防御するものであり、象嵌とは地の素材を彫って、その部分に他の材料をはめこむ技法のことである。
 造りは鍛錬された鉄地に0.3ミリほどの細かい透かし彫りをし、埋め込んだ金が取れないように緻密な彫込をほどこす。人間の手作業としては限界に近い作業である。出来上がった象嵌は華麗な文様と無類の美しさで見る人を魅了する。
 現代でも日州透かし象嵌はこの地方で製作されているが、その作業の困難さから年に数枚しか作ることが出来ない貴重な工芸品である。
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2007/10/31


燕鎚起銅器 Tsubametsuikidouki 

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 燕鎚起銅器(つばめついきどうき)は、新潟県燕市の伝承技術として知られ、金・銀・銅・錫などの素材を鎚(つち)で打ち起こす金属工芸品である。
 江戸時代中期、地元の弥彦山から銅が産出されていた。そこへ仙台から職人がやってきて製造技術を伝えたといわれ、やかん類が生産されていた。これが現在の燕市が鎚起銅器を中心とした、スプーンやフォークなどの食器類、日用品が特産となったはじまりである。
 鎚起銅器は、一枚の銅板から大小さまざまな鎚や鏨(たがね)を用いて形成し、銅器を熱したあとゆっくり冷やす焼鈍(しょうどん)という方法を繰り返し、打ち延ばし・打ち縮めという鍛金の技術を駆使して作品を仕上げていく。
 さらに、表面には彫金で装飾を施し、打出・片方を斜めに彫って線を描く片切彫(かたきりぼり)・彫り上げたくぼみに金・銀・貝など他の材料をはめ込む象嵌(ぞうがん)などの技術が用いられる。
 燕鎚起銅器は、殺菌作用があり熱伝導率が高く、丈夫であるため長年愛用できる逸品である。
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