NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/18


るり姫祭 Ruri-hime-matsuri Rurihime Festival

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 毎年一一月二三日、愛媛県大洲市の白滝では滝に身を投げたるり姫の霊を供養する、るり姫祭が開催される。
 るり姫は滝之城城主の藤原行春の奥方である。滝之城は戦国時代末期に長宗我部軍に再三攻められ、城は落城した。るり姫を含み女性たちは、吹き針、薙刀、手裏剣で応戦し最後に白滝に逃れたが、追っ手は容赦しなかった。
 るり姫は二人の娘に生き延びる様言い聞かせ、2歳の世継ぎの尊雄丸(たかおまる)を抱いて60メートル下の滝壷(今の雌滝)に身を投げて自殺する。
 供養と子供たちの健康を祈願して、赤・白・ピンク・青などの美しい衣装を身に付けた少女たちと、花神輿を担いだ少年達の行列が行われ、るり姫塚前での法要の後、花神輿を滝壷に投げ入れる。この後、舞踊や豊年踊りなど郷土芸能が行われる。
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2007/11/15


十楽寺 Juuraku-ji 

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 四国霊場第7番札所である十楽寺(じゅうらくじ)は、弘法大師・空海が阿弥陀如来像を彫って本尊とした寺である。
 「八の苦しみを逃れ、十の楽があるように」との意味から光明山十楽寺と称し、境内の治眼疾目救済地蔵尊は眼病に霊験があることで知られている。
 永正年間(1504~1520)、長宗我部元親の兵火の際に堂を焼失し、この時、住職の真然は本尊・脇仏・舎利仏・経本など運び出したが、経本を持たせた小坊が流れ矢に射られ、倒れた小坊はその時経本を土に隠した。その場所は「経塚」として、今も残されている。
 その後、お堂は寛永一二年に再建されたが、現在の本堂は、更にあとの明治の再建とされている。
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2007/11/5


河後森城跡 Kagomori-jo-seki 

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 「河後森城跡(かわごもりしろあと)」と書かれた大きな石碑が立つ登山道入り口。そこから自然散策をしつつ、中世の歴史を残す城跡を見てまわることができる。また山頂からの素晴らしい展望も見物である。
 河後森城跡は伊予と土佐の国境におかれ、1997年に国の史跡に指定された、指定面積二〇二・〇三八平方メートルという県下最大級の中世城郭跡である。
 鎌倉時代から江戸時代初期まで、約四〇〇年あまりに渡ってこの地域を支配した宇和郡領主・西園寺氏の旗本、河原淵(かわらぶち)氏の豪壮な居城跡。戦国時代には長宗我部(ちょうそかべ)軍勢と戦った古戦場でもあるという。
 城郭内からは当時の面影を残す沢山の貴重な遺構や、当時中国から運ばれた陶磁器、国産の備前焼の壷、多くの瓦など、遺物が多数出土しており、現在も発掘調査や整備が続けられている。
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2007/10/31


土佐打刃物 Tosa-uchihamono 

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 土佐打刃物(とさうちはもの)とは、高知県の香美市(かみし)に古くから伝わる工芸品である。
 鎌倉時代後期の徳治元(1306)年、大和国より移り住んだ刀鍛冶の五郎左衛門吉光派が土佐打刃物をつくったのが始まりで、室町末期まで繁栄した。戦国の乱世では需要に応じ、武具や刀剣をつくっていた。
 天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めに参戦し、土佐一国を統一した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、佐渡から刀鍛冶を連れて帰り、これが刃物の産地としての始まりとなった。「長宗我部地検帳」には、三九九軒の鍛冶屋が存在していたことが記録されている。
 本格的な生産が始まったのは元和七(1621)年で、土佐藩の財政復興として新田開発などの振興政策を受け、農林業用打刃物の需要が一気に拡大した。
 土佐打刃物は刀鍛冶から習得した技術で鎌や鉈、のこぎりなど農山林具を中心に発達した。切れ味がよく耐久性があり、研ぎやすいことで知られ、全国有数の刃物産地として高い評価を得ている。
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2007/10/11


白滝 Shira-taki 

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 「秋の白滝、木と木のもみじ、山に綿の幕をはる」と詩人・野口雨情が絶賛した白滝公園は、瀬戸内海に流れ込む肱川(ひじかわ)の河口から、約6km上流に位置する。白滝(しらたき)はこの公園内にある大小7本の滝の総称で、地名にもなっている。
 白滝は、数段に分かれて流れ落ちる落差80m幅2mの雄滝、最も迫力がある落差60m幅3・5mの雌滝、雄滝と雌滝が落ち合う落差25mの落合滝の大滝3本と、合歓の滝、御来光の滝、都の滝、貫洞の滝の小滝4本をいう。白滝には「るり姫伝説」が残されており、長宗我部軍に攻め込まれた「るり姫」が、世継ぎの尊雄丸を抱いて雌滝の滝壺に身を投げたというものである。
 紅葉の時期を中心に多くの観光客が訪れ、最盛期の一一月には「白滝滝まつり」や「るり姫まつり」が催される。
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2007/8/9


三滝渓谷 Mitaki-keikoku 

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 四国山脈と支脈に囲まれた自然豊かな城川町。
 木々と水が織りなす美しい景観が広がる自然公園内にある三滝渓谷は、一六世紀末の戦国時代に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の攻撃を受けて落城し、城主であった式部卿(しきぶきょう)紀親安が悲運の最期を遂げた悲話の他にも多くの伝説を秘めている。
 三滝渓谷は八十八滝、九十九渕といわれており、それぞれに名前のついた大小様々の滝や多くの伝説を秘めた淵による渓谷美を四季折々の木々の移ろいとともに楽しむことができる。至る所に立てられた立て札に書かれている伝説を読みながら散策するのもまた楽しい。
 公園内には視覚体験館、地質館、炭焼小屋、万葉の道、三滝ロッジ、ふるさと交流館などが整備されている。「万葉の道」と名づけられた散策道には万葉集にちなんだ40基の歌碑が立ち並び、句碑にちなんだ植物が植えられている。
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