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2007/6/21


御油宿 Goyu-juku Goyu-juku

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 御油宿(ごゆじゅく)とは東海道五十三次、三五番目の宿場。現在の愛知県豊川市御油町である。
 東海道が制定されたのは、慶長六(1601)年であったが、この年に伝馬朱印状が発行されており、早い時期から宿場として成立していたことが確認されている。
 この伝馬朱印状では御油・赤坂で一宿と制定されていたためか、本陣の数も多く最多時で4件、少なかった頃でも2件存在していた。
 姫街道(本坂街道の俗称)の分岐点にもなっており、隣の赤坂宿ともに遊興の場としても大いに賑わった。
 また、安藤広重の絵には飯盛女が宿泊客の争奪を行っているように描かれているが、東海道の制定後、独立した赤坂宿との距離が約1・7kmと非常に近かったため、互いにすさまじい客引きをしたと伝えられている。
 現在「御油の松並木」として街道の松並木が御油宿と赤坂宿の間に残っており、当時の面影を残している。
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庄野宿 Shouno-juku Shono-juku

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 庄野宿(しょうのじゅく)は東海道五十三次、四五番目の宿場。現在の三重県鈴鹿市にあたる。
 東海道が徳川家康によって整備されたのは、慶長六(1601)年だが、この庄野宿は最後の寛永元(1624)年に作られた。隣の石薬師宿(いしやくしじゅく)からは一里にも満たない距離で、東は日永の追分、西は関から別ルートを通行することが一般的になっていた。
 そのため人通りは少なく、この宿場を通る客のほとんどは休憩のみだったため、幕府の直轄地であった庄野宿は、不振を理由に人足百人・伝馬百疋から、人足五十人・伝馬五十疋の半分まで幕府により削減が行われることがあるなど、非常に苦労を重ねた宿場でもある。
 そのような不振にあえぎながらも、安藤広重の残した東海道五十三次の中では「庄野」は非常に人気が高く、目にする機会も多い。
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坂下宿 Sakashita-juku Sakashita-juku

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 坂下宿(さかしたじゅく)は、東海道五十三次の四七番目の宿場。
 現在の三重県亀山市にあたる。
 三重県と滋賀県の県境、箱根と並び称された東海道の難所、鈴鹿峠の東麓に位置する。元々は片山神社の参道付近にあったが、慶安三(1650)年の洪水で発生した土石流で壊滅したため、現在の場所に移転することとなった。
 「坂の下では大竹小竹・宿がとりたや小竹屋に」という唄が残っており、「坂下宿の本陣、大竹屋に泊まるのは無理だが、せめて脇本陣の小竹屋に泊まってみたい」という意味で、当時の宿場の旅籠の規模が分かる。
 安藤広重がこの地の絵を残しているが、移転した後の風景を描いている。室町時代の絵師である狩野元信が美しい絶景をうまく描けずに筆を投げたことから名前がついた筆捨山(ふですてやま)が見事に描かれている。
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土山宿 Tsuchiyama-juku Tsuchiyama-juku

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 土山宿(つちやまじゅく)は、東海道五十三次、四三番目の宿場。現在の滋賀県甲賀市、旧土山町にあたる。
 江戸から向かう道中の難所、鈴鹿峠を超えたところに設けられていた。
 「坂は照る照る・鈴鹿は曇る・あいの土山雨が降る」と唄われているように雨が多く、安藤広重の残した「土山春之雨」には絶え間なく雨の降り続く木立の間を、旅人の列が肩を濡らしながら歩く様が表現されている。
 実際には、手前にあたる坂下宿の方が雨量は多かったようだが、鈴鹿峠を境に天候が変わる様子を表現したと推測される。
 現在は当時の旅籠跡や、東海道一里塚跡、本陣跡、松並木など、当時を偲ばせる史跡が複数残されている。
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大津宿 Ootsu-juku Otsu-juku

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 大津宿(おおつじゅく)は、東海道五十三次の五三番目、中山道六十九次の六九番目に位置する、京への長き道の最後の宿場である。現在の滋賀県大津市。
 慶長七年に本陣が置かれたため発展に貢献し、町数一〇〇ヶ所、人口一八〇〇〇人と非常に大きい上、琵琶湖の物資が集散するため湖上交通でも要であり、宿場としても本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠七一軒が並ぶ最大規模の宿場であった。
 現在では、当時の賑わいもひっそりと息をひそめ、石碑が当時の案内を残すにとどまっている。
 安藤広重の「東海道五十三次・大津」では、のどの渇きを癒す茶店が描かれており、この茶店にあった「走井の清水」で知られた井戸も現在の月心寺に残されている。
 また、絵の中に登場する走井餅(はしりいもち)は、こし餡がやわらかい餅に包まれた細長くお菓子で、現在も名物としてファンが多い。
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2007/6/11


桑名宿 Kuwana-juku Kuwana-juku

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 東海道を品川宿から数えて四十二番目の宿場に当る桑名宿(くわなじゅく)は、現在の三重県桑名市にあたる。「その手はくわな(桑名)の焼き蛤」と掛詞に残っているとおり、蛤が有名。
 桑名は宿場町として栄える以前から、物資の集積地、海運の中継港として栄えており、またお伊勢様として知られた伊勢神宮への参拝に向かう旅人にとっては、伊勢国への東の玄関口でもあった。
 桑名宿の一つ手前、名古屋の宮宿との間には木曽三川が流れており、越えることが大変難儀だったため、海上七里を船で渡る「七里の渡(わたし)」が設けられていた。歌川広重の東海道五十三次絵に「桑名 七里渡口」として描かれている。この航路は満潮時と干潮時で異なり、所要時間も一定していなかった。
 船着き場跡には伊勢神宮遙拝用の一の鳥居があり、伊勢神宮への参道を示す「伊勢国一の鳥居」とも呼ばれていた。この鳥居は今でも、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられている。
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2007/6/4


瀬田・石山の清流 Seta Ishiyama no seiryuu Seta, Ishiyama’s Clear Stream

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 瀬田・石山の清流とは、滋賀県大津市瀬田を流れる瀬田川の景観のことである。
 琵琶湖八景の一つ「夕陽・瀬田石山の清流」は、夕日に映える瀬田川の流れを背景に、日本三名橋の一つ、唐橋を見たものである。
 古くから、近江八景の一つでもある「瀬田の夕照」は、「石山の秋月」と共に滋賀の景色の中でも、特に魅了される景観で、古くから多くの文学作品や浮世絵などにも登場している。
 現在でも観光として屋形船が出され、石山寺や川沿いでは、春は桜、初夏はつつじ、夏は涼風、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々の美しい様子を楽しむことができる。
 近年では唐橋には車、瀬田川にはボートやカヌーと、安藤広重の描いた浮世絵とは大きく異なった光景であるが、夕暮れ時、唐橋辺りをボートが行き来する風景は、まるで映画の1シーンのような時代を越えた美しさを魅せてくれる。
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池鯉鮒宿 Chiryuu-juku Chiryuu-juku Post Town

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 池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)は江戸五街道の一つ、東海道の39番目の宿場で、現在の愛知県知立市にあたる。
 昔からこの宿場一体は知立という名であったものの、宿場にある知立神社内の池に鯉や鮒が多くいたことから、池鯉鮒という名が用いられるようになったといわれている。
 氏神である知立神社もその歴史は古く、社伝によれば日本武尊の父、景行天皇の時代にまでさかのぼるほどだ。
 次の宿である鳴海宿や間の宿である有松での木綿の絞りの需要の高まり、そして周辺都市へとつながる交通の要所であったこともあり、数百頭の馬が集められる大規模な馬市なども開かれた。この馬市の様子は安藤広重の名作「東海道五十三次」にも「首夏馬市」として書かれている。
 関が原での合戦前まではのどかな農村であった池鯉鮒も、宿場として制定されてからは大きく様変わりしていった。
 そんな数百年前の賑賑しさを感じながら、ぶらりと散策してみるのも面白いかもしれない。
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