NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/30


越中 安田城 Eccyu Yasuda-jou 

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 安田城(やすだじょう)は富山県富山市にある城址である。
 近隣の井田川の水を引き入れた広い堀が巡らされ、水堀に浮かぶ浮城のようである。本丸、二の丸、右郭で構成された戦国時代の平城で、城の建物は今はないが、発掘調査を経てその外形は現在も良い状態で残されている。
 安田城が創建された年は不明であるが、天正元年(1573)年の資料にはすでに存在している。
 天正一三(1585)年、豊臣秀吉が富山城主佐々成政を征伐した際、秀吉側の前田利家の家臣がこの城で陣を取った。これを機会にのちに前田利家やその家臣が居城としたが、一国一城令が発令される頃に廃城となった。
 昭和五六(1981)年に国指定史跡となっている。
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2008/6/25


水口城 Minakuchi-jou 

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 滋賀県の「水口城(みなくちじょう)」は、平安の昔から栄えていた甲賀の地を支配の拠点とする為、天正一三(1585)に羽柴秀吉の命により中村一氏が水口大岡山に城を築いたのがはじまりとされる。
 徳川家康が駿河に移った天正一八(1590)年に増田長盛が、文禄四(1595)年には長束正家へと城主は移り替わるが、その中でも正家は豊臣家の財政を司っていた重要人物であったため、関ヶ原合戦の際に城は攻められ落城してしまう。
 徳川家の直轄地となった水口城は、平城でほぼ正方形の石垣、水堀に囲まれた本丸と東方に東西二〇間、南北一六間の出丸があり、外枡形の様になっていた。本丸は将軍家宿館としての性格をよく表しており、規模の大きい建物で構成され、公的空間と私的空間の二つに分けられていた。御座所も設けられ、これに面した庭園には「御亭」と呼ばれる二階建て望楼風の建物が建つなど、京都二条城を小さくしたような建造物になったという。
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2008/6/16


ならまち Naramachi Nara-machi

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 奈良県奈良市の市街地南に位置し、古い町家や寺院が集まる元興寺の旧境内界隈を「ならまち」と呼ぶ。奈良で一番古い町として、伝統建築群地域に指定されている。
 江戸時代末期から明治のならまちの面影を伝える町並みは、第二次世界大戦の戦火を免れたもので、風情ある建物があちらこちらに残されている。
 旧市街は平城京の外京にあたり、平城京のまちの構造をもとに、中世に新たに発達したまちであった。都が長岡京に移った後、平城京は荒廃したが、寺院はそのまま残された。東大寺や興福寺の辺りには、寺の仕事にたずさわる人々が住みつき、やがて郷(ごう)と呼ばれるまちをつくりあげた。
 懐かしい生活用具などを展示してある「奈良町資料館」や、間口は狭く奥行きの深い、伝統的な町屋を再現した「奈良市ならまち格子の家」など、今も当時の面影を残している。
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2008/6/4


長岡城(芋引形兜城) Nagaoka-jou 

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 長岡城(ながおかじょう)は、新潟県長岡市にある城跡だ。
 もともとは南北朝時代に長岡市西蔵王付近に築城されていたが、元和二(1616)年、この地に入封した堀直寄(ほりなおより)によって信濃川からやや離れた現在のJR長岡駅周辺に新たに築城が開始され、代わって二年後に入封した牧野氏により越後長岡藩の居城として完成された。
 その縄張りは梯郭式の平城で、周囲には栖吉川と信濃川が取り囲み、自然の外郭を形造っていた。
 また、城の東側を流れる柿川から水を引いて堀を幾重にもめぐらしていた。
 しかし戦国時代以後の建築であるために防御力はあまりなかったと思われ、慶応三(1868)年の戊辰戦争の際、幕府軍に属した城郭は、城下共々焼失している。
 この城には逸話があり、ある新雪の積もった朝に一匹の白狐が長い芋の皮をくわえて歩きまわった跡が兜の形をしており、それを元に城の構えが考案された言われ、この逸話から芋引形兜城(おびきがたかぶとじょう)という別名も持っている。
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2008/5/22


田辺城(舞鶴城) Tanabe-jou(Maitsuru-jou) 

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 京都府舞鶴市の「田辺城(たなべじょう)」は、織田信長の命によって丹後の国を制圧した細川藤孝(幽斎)によって天正八(1580)年に築かれたものである。
 幽斎は初め「宮津城(みやづじょう)」を居城としていたが、畿内に近く、交通の要所であったこの地に田辺城を築き、丹後を治めた。
 東西に川が流れ、北には湾海を臨むという立地に築かれたこの平城は、鶴が舞う姿の様だと称され「舞鶴城(まいづるじょう)」とも言われた。そして明治以降、「舞鶴」という地名の由来にもなった。
 幽斎、忠興親子が居城した後は、京極氏、牧野氏が居城し約二九0年間、丹後を統治する中心的な存在として役割を担った。
 現在、本丸付近は「舞鶴公園」として整備され、桜の名所として有名である。
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岸和田城(千亀利城) Kishiwada-jou(Chikiri-jou) 

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 大阪府岸和田市の「岸和田城(きしわだじょう)」は、建武元(1334)年に当時「岸」と呼ばれていたこの地に楠木正成の一族である和田氏が城を築いたのが始まりである。「岸和田」という地名の由来でもある。
 近世城郭として整備されたのは、天正一五(1587)年に現在の地に小出秀政が入封し行ったもので、慶長二(1597)年には五層の天守閣が完成した。 元和五(1619)年に松平康重が入封し、城下町の整備を行った。寛永一七(1640)年に岡部宣勝が入封すると城郭の大改築が行われ、伏見城の櫓や城門が移築された。また石垣を積み、津田川沿岸の堤防を改築、総曲輪をもつ連郭式平城が完成した。
 文政一〇(1827)年、落雷で天守閣が焼失したが、昭和二九(1954)年に再建され、現在、天守閣や隅櫓は資料館として岡部氏の遺品や郷土史料を展示している。また本丸内の八陣の庭は、「諸葛孔明の八陣」に擬したもので近代感覚を取り入れた石庭として知られている。
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2008/5/14


小松城 Komatsu-jou 

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 小松市の中心部にある小松城(こまつじょう)は、天正四(1576)年一向宗の宗徒であった若林長門(わかばやしながと)が、戦国武将の越前朝倉氏と戦うため、築城した平城である。
 柴田勝家に攻められて落城した後、村上氏、丹波氏と城主が替わった。
 元和元(1615)年の一国一城令の例外として、加賀藩三代目藩主、前田利常の隠居城として居城が認められ、城の大改修も許可されたことで知られている。
 小松城は別名を芦または浮城といい、それは梯川(かけはしがわ)の蛇行を巧みに利用した構造になっていたためである。それにより、湿地に浮かぶ城は外敵に対する防備も固かったとされる。
 戦後堀も全て埋められたが、天守台の石垣が当時の姿を偲ばせている。
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2007/10/18


小田城 Oda-jyou 

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 小田城は茨城県つくば市、宝鏡山の麓に位置した城である。
 鎌倉時代初期に小田氏の祖である八田知家が築城した。源頼朝の重臣であった知家は常陸守護に任じられ、以降小田氏は関東で勢力を誇った。
 延元四(1339)年、常陸に上陸した北畠親房が小田城で神皇正統記や職原抄を記したことでも知られる。
 茨城県下でも有数の城跡であり、国指定史跡にも指定されている。
 完全な平城であり鐘楼台と涼台が僅かに高い以外は殆どが平地。元々は方形の武家屋敷が増築を繰り返し大きくなったとされる。
 以前は筑波鉄道の線路が引かれていたが現在は廃線となり、遊歩道として整備されている。
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