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2008/7/31


寝覚物語絵巻 Nezamemonogatari-emaki 

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 寝覚物語絵巻(ねものがたりえまき)は、奈良県奈良市学園南の大和文華館にある大和絵である。国宝に指定されている。
 寝覚物語絵巻は、平安時代後期に書かれたと推定される王朝物語「夜半の寝覚(よわのめざめ)」を絵物語にしたものである。
 物語の作者は菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)と伝えられるが、真偽は判然としない。
 寝覚物語絵巻は、主人公「寝覚の上」の数奇な恋の物語を優美な大和絵の手法で描いた作品で、はんなりとした色あい、細やかな筆遣いが美しい。
 絵巻は絵と詞書とも四段からなっているが、絵一段に対応する詞書は失われている。
 寒色系の顔料を多用し、精緻に描かれた画面には、平安貴族の耽美的な趣味が色濃く表れている。
 寝覚物語絵巻は、平安時代に描かれた貴重な王朝絵巻である。
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2008/7/14


白描絵料紙金光明経 Hakubyoueryou-shikon-koumyoukyou 

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 白描絵料紙金光明経は、『金光明経 (こんこうみょうきょう) 』4巻と『理趣経(りしゅきょう)』1巻の書写と、物語絵からなる。
 後白河院の命によって作り始められた白描絵料紙金光明経は、もともと絵巻物として完成するはずだった。しかし、建久三(1192)年三月一三日の後白河法皇の崩御にともない、その制作は中止されるも、当時の「故人ゆかりの紙に経典を書写することで供養ができる」といった考えから、菩提を弔うため、その料紙の上に写経をしたのであった。
 白描絵料紙金光明経の完成には、こうした経緯があったため、写経と絵の関係性は特にない。が、その絵の素朴で鮮やかさに心惹かれるものがある。
 現在国宝に指定されている。
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2007/10/31


随心院 Zuishin-in 

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 随心院(ずいしんいん)は、正暦二(991)年、仁海僧正が牛皮山曼茶羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)を創建したのがはじまりである。
 鎌倉時代の寛喜元(1229)年、後堀河天皇から門跡の宣旨をうけ、随心院門跡となる。承久・応仁の乱により焼け野原になってしまうが、江戸時代の慶長四(1596)年、九条家と二条家の両宮家から門跡が入山され再興した。
 この周辺は、この地方の勢力者である小野一族の土地であった。隋心院境内は小町の旧跡と伝え、小町は現在の随心院にある「小町化粧の井戸」付近に住んでいたといわれている。
 総門をくぐると右に梅園がある。随心院の紅梅は「はねず」という薄紅色を意味する名で呼ばれている。三月下旬には百夜通いの話で有名な小野小町と深草少将(ふかくさのしょうしょう)の物語を主題とした「はねず踊り」が催される。小町に想いを寄せて通いつめた深草少将が、小町のところへ通い続けた九十九夜目の雪の日、門前で疲れきって倒れ、再起できなかったという話が伝えられている。
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野宮神社 Nonomiya-jinja 

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 野宮神社(ののみやじんじゃ)は、京都府京都市右京区嵯峨野宮町にある神社である。祭神は、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)。
 野宮はその昔、天皇の代理で伊勢神宮に仕える、皇女・女王の中から選ばれる斎王が、伊勢へ行く前に身を清めたところとされる。
 縁結びや、進学の神様として知られており、若い女性や修学旅行生に人気がある。
 鳥居は樹皮がついたままの「黒木の鳥居」で、古代の鳥居の形式を伝えている。また、境内には苔を用いた美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」がある。
 神社周辺の竹は「野の宮竹」と呼ばれており、主に工芸品などに利用されている。
 源氏物語「賢木」の巻にも現れ、謡曲「野宮」の題材ともなっており、人力車の嵯峨野めぐりもこの神社の前からスタートしている。
 野宮神社は、今も篤く崇敬されている社である。
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2007/10/23


廬山寺 Rozan-ji 

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 廬山寺(ろざんじ)は、京都市上京区寺町通広小路にある圓浄宗本山の寺院。本尊は平安時代作の阿弥陀如来。
 天慶元(938)年、比叡山天台一八世座主・元三大師良源によって、平安京の中心軸「朱雀大路」の延長線上に位置する船岡山の南に創建。寛元年間(1243~46)に僧・覚瑜が再興し、中国の廬山にならって廬山天台講寺と号した。応仁の乱で焼失。その後、信長の焼き討ちは免れたが、後に秀吉により現在地に移される。
 平安時代には、紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)の邸宅があった場所で、紫式部はこの地で育ち、ここで「源氏物語」「紫式部日記」などを執筆したと伝えられている。紫式部にちなんだ源氏の庭は砂の白と苔の緑が巧みに配され、そこに清楚な桔梗が色を添え、他に類を見ない気品のある見事な庭園となっている。
 また、京都北山に聖徳太子が建立した金山天王寺の本尊の如意輪観音菩薩と脇侍の毘沙門天像は、明治以降、この廬山寺に安置され洛陽三十三ヶ所観音霊場や京都七福神として信仰を集めている。
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2007/10/22


藤縄神楽 Fujinawa-kagura 

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 藤縄神楽(ふじなわかぐら)は愛媛県の柳沢地区において、江戸時代から演じられている九州日向神楽系統の神楽である。
 起源年については明らかではないが、弘化二(1845)年にはすでに奉納の記録が残っている。
 その昔、松山の道後温泉の湯が止まった時に、藤縄神楽の太鼓の名人、藤縄三島神社の神主が湯が出るようにと祈り神楽を奉納した。その際太鼓を「デンデン」と打つと湯が出ないというので「ドンドン、デルデル」と打ったところ、本当に湯が出るようになったという伝承話が残っている。
 その物語でも象徴しているように、神楽の中でも太鼓のリズムに様々なパターンや工夫が施されている。
 舞は歩みの幅が決められていて、その歩幅の六足四方の広さの中を舞う。
 盆神楽に似た「月日の舞」、鬼と四神が刀を交える「鬼四天」、長刀をもって荘厳に舞う「薙刀の舞」など表現が豊かな演目が多い。
 昭和五六(1981)年に市町村指定重要無形民俗文化財に指定されている。
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2007/10/17


東門院 守山寺 Toumon-in Moriyama-dera Tomonin Moriyamadera Temple

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 天台宗の開祖・最澄が延暦一三(794)年に開いたと伝えられている。これより六年前に建立された比叡山延暦寺の東門に当たることから東門院(とうもんいん)と呼ばれ、桓武天皇により比叡山を守る寺に名号されたことから守山寺(もりやまでら)とも呼ばれている。所在地名の守山はこれに由来するという。
 江戸時代には朝鮮通信使特使の宿舎にもなったが、昭和六一(1986)年に本堂、庫裏が火災で全焼。本堂に安置され傑作と賞賛された十一面観音像も同時に焼失したが、平成二(1990)年に本堂を再建、十一面観音像も修復された。
 焼失を逃れた護摩堂本尊の不動明王坐像、境内の片隅にある鎌倉時代の石造五重塔は国の重要文化財に指定され、その他の美術品とともに、千二百年余りに及ぶ寺の歴史を物語っている。
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2007/10/1


知立 山車からくり Chiryu Dashi-karakuri Chiryu Float Karakuri

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 知立・山車からくり(ちりゅう・だしからくり)は、愛知県知立市の知立神社にて隔年で5月2日~3日に行われている祭りである。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 知立神社は景行天皇四二(112)年に創建された三河の二の宮であり、まむし除け・雨乞い・安産の神として信仰を集めている。祭神は、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)他3柱。
 知立では、江戸時代からからくり人形を町内の人が工夫して作り、受け継いできた。人形の機構も精巧ではなく、ありあわせの雑木と布で作られてきた。
 知立の山車からくりは、山車の上で浄瑠璃にあわせて、からくりだけで物語を上演する大変珍しいもので、山車からくりとしては、もっとも発達した形とも言われる。
 知立・山車からくりは、市民の誇りといえる伝統文化である。
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