NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/9/19


福昌寺跡 Fukushou-ji-ato 

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 鹿児島市にある福昌寺(ふくしょうじ)跡地は、現在の玉龍高校の裏手に位置している。
 応永元(1394)年、島津氏第七代当主・島津元久の要請により曹洞宗の高僧・石屋真梁(せきおくしんりょう)が建立し、以後島津家の菩提寺となった。
 江戸時代の絵図「三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)」には、幾重にも連なる建物と大回廊を持つ南九州屈指の大加羅として登場する。薩摩、大隅、日向の三州の僧侶を支配する僧録所もあり、千五百人の僧侶がいたという。
 天文一八(1549)年、島津貴久から宣教の許可を得たフランシスコ・ザビエルがこの福昌寺を宿所とし、当時の福昌寺住持であった忍室(にんじつ)と互いの宗教について親交を深めた。
 明治二(1869)年、神道国教・祭政一致、仏教施設の廃止という政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、貴重な建築群や歴代藩主が奉納した寺宝類もろとも破壊されてしまう。
 現在、周囲は掃き浄められ、緑に囲まれて島津家や歴代の高僧の美しい墓地群が残っている。
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2007/8/10


中江藤樹邸跡(至徳堂) Nakae-Touju-tei-ato(Shitoku-dou) 

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 近江出身の儒学者中江藤樹(とうじゅ)は後に「近江聖人」といわれるようになった江戸時代初期の陽明学者である。
 近江の農民中江吉次の長男として生まれた藤樹は、伯耆(ほうき)米子藩主加藤家の百五十石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴いた。その後藩主加藤貞泰の転封で祖父母とともに大州に移住。一五歳で家督相続し、独学で朱子学を学んだ。二七歳の時、脱藩し近江へ。以後門弟の教育に努め、四一歳で亡くなるまで知行合一(ちこうごういつ、陽明学の実践重視の教え)の実践を深めた。
 宇和島中学校大洲分校に学んだ窪田哲二郎氏からの寄付金を基金として、有馬純次校長の構想により、藤樹の遺徳を伝えまた学ぶ「学舎」として、百石取の武士の住居を模した「至徳堂」を建設。落成は昭和一四年一一月一八日。昭和二八年には愛媛県指定史跡に選定された。
 大洲城三の丸の跡に建てられた県立大洲高校の敷地内にある。
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2007/5/2


火伏せの虎舞 Hibuseno-toramai 

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 火伏せの虎舞(ひぶせのとらまい)は、宮城県加美郡加美町にて行われる祭である。昭和49年、宮城県無形文化財に指定された。
 旧中新田地区は、春先に奥羽山脈から吹き付ける強風のために、度々大火に見舞われていた。
 延元四(1339)年、「雲は竜に従い、風は虎に従う」の故事に倣い、防火祈願として火伏せの虎舞が始まったという。
 祭りは、午前7時の花火を合図に華やかに飾り付けた山車が町内に繰り出し、虎に扮した子供達が早朝から各戸を回って防火を祈願する。
 商店街では酒造店旧店舗の屋根で、数組の虎が舞を披露する。
 現在は高校生や消防団員による笛太鼓のお囃子にあわせ、町内の中学生によって、毎年4月29日に演じられている。
 火伏せの虎舞は、勇壮でにぎやかな、伝統の祭である。
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2007/5/1


山岸良三 Yamagishi Ryouzou 

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 新潟県長岡市十日町の周辺に伝わる伝統工芸品「小千谷縮(おぢやちぢみ)」の伝統工芸士。
 昭和六三(1988)年、伝統工芸士に認定される。この地方では奈良時代には既に麻織物が作られ、朝廷への献上が行われていた。小千谷縮はこの伝統を受け継ぐ麻織物で、江戸時代に緯糸に強い撚りをかける技法が生まれ、生産が増加し、各地に広まった。
 氏は高校卒業後家業を継ぐが、80年代頃、織物の衰退を危惧し、全国の産地を回り、技術を伝え学び、後進の育成にも力を注いだ。
 現在も海外の絹に目を向け、新たな製品の開発を行うなど、小千谷縮と小千谷紬の将来を見据え、常に挑戦をし続ける職人である。
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2007/4/4


丸亀うちわ Marugame-uchiwa 

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 日本全国生産量の9割を占める「うちわ産地」である、香川県丸亀市で生産されているうちわ。国の伝統的工芸品に指定されている。
 その歴史は寛永一〇(1633)年に金光院住職宥睨(ゆうげん)という人物が考案したことが始まりとされている。
 その後、いくつかのうちわが考案され、融合したものが今の「丸亀うちわ」と呼ばれるようになった。
 もともとのうちわの素材は「竹」を使った。うちわ骨と呼ばれるうちわの形には「中満月」「京丸」「七八タキ」などの形がある。骨組みの作業や、紙を貼り付ける作業など、根気と繊細な精神が必要である。
 日本の風情がたっぷりの工芸品であるが、「お祭り」にはもちろん、甲子園球場で行なわれる高校野球でも、応援には必携になっている。
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2007/3/13


韮山城 Nirayama-jyou Nirayama Castle Ruins

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 韮山城は、静岡県伊豆の国市韮山にあった城である。
 築城年ははっきりしないが、北条五代記によると、文明年間(1469〜86)に外山豊前守が城を造ったのが始まりとされている。
 延徳5(1491)年、北条早雲によって奪取され、以後本格的に造営された。早雲は没するまでここを居城としたという。
 天正18(1590)年の小田原征伐の時は、3000余の将兵をもってこの城を守り通した。
 その後内藤信成が城主になったが、慶長5(1600)年の移封により、韮山城は廃城となった。
 韮山高校の校舎の付近は御座敷といい、早雲の居館跡であったと思われる。また、龍城山の高い所には本丸や土塁、空掘などの遺構が残っている。
 韮山城は、北条早雲を象徴する代表的な平山城である。
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2007/3/9


鹿島城 茨城 Kashima- jyou Ibaraki Kashima Castle Ruins in Ibaraki

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 鹿島城は茨城県鹿嶋市城山に位置した城である。
 鎌倉時代に鹿島政幹により築城された。鹿島氏は正平二十三(1368)年、鹿島惣大行事職に任命され、以降世襲し鹿島惣大行事家と呼ばれて隆盛を誇った。
 天正十八(1590)年、佐竹氏の南方征伐により、鹿島氏の滅亡と共に廃城となった。
 鹿島神宮の西側に位置しており。現在二の丸には高校が建ち、本丸跡は城址公園に整備され、かなりの広さを誇る。
 周辺にはまだ遺構が残り、本丸周辺を囲む大掛かりな堀は近世城郭と見間違えるほどに深く広い。水堀や土塁も点在しており、戦国の威風をとどめている。
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2007/3/8


南部梅林 Minabe-bairin 

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 南部梅林は和歌山県日高郡みなべ町に位置する梅林のこと。
 梅栽培は江戸時代に紀州田辺藩が奨励、保護政策を取ったことから始まったとされる。江戸中期には田辺藩の特産品として産出され、江戸や上方に送られた。
 全国に知られる梅干の品種「南高梅」は、昭和25年から行なわれた調査と交配で生まれたもの。調査に協力した南部高等学校と品種の高田梅から文字を取り、南高梅と名づけられた。
 南部梅林は「一目百万、香り十里」と言われる日本最大の梅林で、毎年一月から二月にかけて約四万本の梅が咲き誇る。
 梅の香りと白い花弁が咲き誇る風景を見ようと、毎年多くの観光客が訪れている。
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