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2007/10/11


親鸞 Shinran Shinran

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 親鸞(しんらん)は、鎌倉時代初期の僧。浄土真宗の開祖。
 承安三(1173)年、京都・日野に誕生。九歳から二九歳まで、比叡山にて堂僧として修行を積む。その後、浄土宗開祖・法然の門弟となり、「他力念仏」の道を極めた。
 専修念仏の弾圧により、法然・親鸞ら八名が流罪となる。法然と生き別れした親鸞は、越後で俗名を名乗って暮らした。
 赦免の後、関東の常陸(現・茨城県)に移り、法然の教えを土台に、約二〇年間に及ぶ伝道布教を行った。親鸞は権力を持たずに、非僧非俗の立場を貫いた。
 帰郷し、主著『教行信証』(顕浄土真実教行証文類)を初め、多くの書物を仕上げた。浄土真宗の核が完成し、様々な継承・発展を遂げた。口承の書として、『歎異抄』が有名である。
 弘長ニ(1262)年、九〇歳で往生。没後に皇室から見真大師の諡号を贈られる。
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2007/1/30


小宮康孝(人間国宝) Komiya Yasutaka Yasutaka Komiya (Living National Treasure)

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 大正十四(1925)年生まれ。
 昭和五十三(1978)年、重要無形文化財「江戸小紋」の保持者(人間国宝)に認定される。
 染工場に生まれた氏は、小学校卒業とともに父、康助氏(江戸小紋の人間国宝)に弟子入り、父親の技術を徹底的に習得した。修行の中で、優れた小紋染をするためには型紙や染料の研究が必要と感じ、独自にその研究に没頭。やがてその努力は実を結び、彼の作品に独特な細かい柄が霧のように散ったような紋様、色鮮やかな小紋染めの製作に成功したのだった。
 氏の作品は江戸小紋の最高峰とも、お茶をたしなむ人なら知らない人はいない、とも言われる。しかし、氏は「小紋染めは自分の力だけではいいものはできない」と謙虚に語る。型紙職人など、分業スタッフとのコラボレーションにより、最高の品質が生まれるという。
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2007/1/29


大西勲(人間国宝) Oonishi Isao Isao Onishi (Living National Treasure)

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 大西勲氏は昭和十九(1944)年6月30日生。平成14年漆塗りを主とする漆芸技法、髹漆(きゅうしつ)の重要無形文化財の保持者に認定された。
 大西勲氏は、鎌倉彫を学んだ後、昭和四十九(1974)年から赤地友哉(あかじゆうさい)に師事、曲輪造り(まげわつくり)を主とする髹漆の技法を習得した。
 髹漆の幅広い技法のうち、曲輪造りは木材の薄板を環状に曲げ、個々の曲輪を組合わせて素地を形成するもの。大西氏は素地の造形から上塗り・仕上げに到る一貫した制作を取っている。その品格高い優れた作品が評価され、第4〇回日本伝統工芸展の文部大臣賞、第15回日本伝統漆芸展の文化庁長官賞など、数々の賞を受けている。
 また、氏は漆芸技法の保存・伝承にも力を注いでおり、長年にわたり石川県立輪島漆芸技術研修所で後進の指導に当たっているという。
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前史雄(人間国宝) Mae Fumio Fumio Mae (Living National Treasure)

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 昭和十五(1940)年、輪島市に生まれる。平成11年に「沈金(ちんきん)」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
 沈金は、漆芸の装飾技法で、漆の塗面に紋様を彫り、漆を摺りこんで金箔や金粉などを窪みに埋める石川県輪島市に伝わる伝統工芸である。
 前史雄氏は、昭和38年金沢美術工芸大学美術学科卒業後、沈金の名工と謳われた父・前得二に師事、技の鍛錬に努めた。父から受け継いだ技法に磨きをかけ、従来の沈金の地味な趣を超えた絵画的な詩情を加え、親子二代にわたる技術の研鑽は見事に花開いたのだった。作品には静かな中にも深い思いや心象風景が描かれ、それが器の形とマッチしてえも言われぬ気品を醸しだす。
 現在は石川県立輪島漆芸研修所の技術教育にも携わり、後進の指導にも尽力しているという。
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鉄釉陶器 Tetsuyuu-touki Tetsuyu Pottery

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 桃山時代より美濃地方でつくられた鉄釉(てつゆう)陶器。真っ赤に焼けた作品を窯から引き出し、水につけて急激に冷やすことにより漆黒の色調を作り出すのが特徴だ。
 釉中の鉄分量により、1%程度では薄い黄色になり、5%程度だと褐色、10%で黒褐色、それを超えるとチョコレート色の皮膜を生じ、いわゆる柿色を呈す。
 鉄釉陶器の分野では、鈴木藏(おさむ)氏(1934年〜)が平成六(1994)年に、「志野」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。
 氏は多治見工業高等学校窯業科卒業後、釉薬研究家の父のもとで技術を習得。1968年、独立し、現代の志野にこだわって作陶をつづける。ガス窯を使い、長時間焼成の後に耐熱保温させる独特の焼成法をつくりあげた。そうして仕上がる作品は、ダイナミックさと繊細さを兼ね備えたものばかりだ。
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2006/12/15


千利休 Sen-no-rikyuu Sen no Rikyuu

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  安土桃山時代の茶人。1522年、堺生まれ。商人である田中家に生まれた彼の幼名は与四郎。
 若年より茶の湯に親しみ、わび茶を尊ぶ武野紹鴎に17歳で弟子入りした。織田信長が堺を直轄地とした時に茶頭として雇われ、後に秀吉にも仕える。1585年の禁中茶会にあたって、町人の身分では参内できないため、居士号「利休」を勅賜される。
 「茶聖」と呼ばれる利休の偉業は、「わび茶」の完成にある。中国から伝わり、それまで富裕層の遊興に過ぎなかった茶の湯を、日本の美意識を結晶化した「茶道」へと昇華させた。
 極限まで無駄を省いた空間、自然をとりこんだ美意識、瞬間の出会いを大切にする「一期一会」などの視点は、日々、生死に向きあう武将たちの魂を震わせた。
 1591年、茶人としての名声の絶頂にあった利休は秀吉の逆鱗に触れ、切腹により、70歳の生涯を遂げた。
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松尾芭蕉 Matsuo-bashou Matsuo Bahou

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 江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。
 1644年、伊賀の国に生まれる。若くして俳諧の道に入り、31歳の時に江戸へ移り、職業的な俳諧師として身を立てる。深川に草庵を結び、芭蕉の木を植えたことから「芭蕉庵」と名づけた。それまでの滑稽味を主流とした俳諧に高い芸術性を賦与し、蕉風を確立。日本各地を旅しながら多くの作品を残し、日本短詩型文学の一潮流を極めた。
 芭蕉が生きた頃、俳諧師は旅をして暮らすことが多かった。彼らの情報網は日本全土に広がり、文化的なネットワークを築いていた。芭蕉も代表作『奥の細道』では、東北・北陸2400キロを約半年で巡っている。その異様な速さと彼の出生地から、忍者だったという説もある。
 1694年、やはり旅の途中にあった芭蕉は、大阪御堂筋の旅宿で客死。享年50歳だった。
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