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2008/9/22


知念城 Chinen-jou 

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 知念城(ちねんじょう)は、五穀発祥の地とされる、沖縄県南城市知念にあった城である。
 古城と呼ばれる野面積み石垣の郭と、新城と呼ばれる切石積み石垣の郭に分かれており、両者の築造時期にはかなりの時代差がある。
 伝説によると、古城は天孫氏時代(12世紀末~13世紀)の築城とされている。
 新城は、内間大親(うちまうふや)が15世紀後半築城したと伝えられている。内間大親は第二尚氏の始祖・尚円が反乱によって王になる以前に、内間ノロとの間にもうけた息子であるという伝説も残っている。
 太平洋を見下ろす標高100mの丘陵上にあり、城内には男子禁制の久高島遥拝所もある。
 普段は忘れ去られたようであるが、東御廻い(あがりうまーい)の巡礼地として、祭礼の際には多くの人が集まる。
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2008/8/28


三河 足助飯盛山城 Mikawa Asuke-iimoriyama-jo 

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 三河(みかわ)の足助飯盛山城(あすけいいもりやまじょう)は、愛知県豊田市にある城跡である。
 飯盛山は春は桜、秋は紅葉の名所である。香嵐渓にあり、山麓の香積寺は足利氏の居館跡で、土塁が残っている。
 飯盛山城は、足助重長によって治承年間(1177~1181)に築かれ、以後足助氏代々の居城となった。足助氏没落後は、鈴木氏がこの地を支配し、飯盛山城と足助城を併用して本城とした。
 この飯盛山城を本城に、真弓山城、臼木ヶ峯城、大観音城、城山城、成瀬城、黍生城の6支城を、足助七城という。
 現在、主郭部は3段の曲輪から構成されており、飯盛山頂上にある。他に大小の曲輪群が配置されており、昔日の姿を残している。
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2008/8/22


真弓山城跡(足助城跡) Mayumiyama-joseki(Asuke-joseki) 

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 真弓山城跡は、愛知県豊田市足助町にある城跡である。別名、足助(あすけ)城跡とも言われる。
 標高301mの真弓山山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した連郭式の山城で、真弓山は足助の町並みを眼下に見下ろす要衝の地であった。
 平安時代末期に、尾張源氏の血をひく山田重直の子・重長が足助の地に住んで足助氏を名乗り、辺り一帯を支配したのが真弓山城のはじめとされる。
 現在の城は、発掘調査に基づき平成5(1993)年に復興されたもので、質素その物の本丸と長屋、機能優先の物見矢倉・物見台、防備だけの柵と、戦国当時の城を忠実に復元した、見応えのある城となっている。
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2008/8/19


龍岡城 Tatsuoka-jou 

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 龍岡城(たつおかじょう)は、長野県佐久市にある城跡である。
 日本に二つある星形の西洋式城郭の一つで、もう一方の函館の五稜郭と同じ形をしていることから「龍岡五稜郭」の別名も持つ。
 三河奥殿藩の藩主だった松平乗謨(まつだいらのりたか)により、洋式築城の許認可を幕府に届け出て、慶応二(1867)年に築城された。
 その後も五稜郭を取り囲むように外堀が掘られていったが、完成を見ずに明治維新を迎えることとなり、堀もその途中で作業が中断されて現在のように途中までのものとなっている。
 実戦において極めて優れた城とされるフランスのヴォーバン城をモデルとしているものの、壁が低くて水堀も狭く、砲台も西方に一基しか無いため、龍岡城はあまり実戦には向かないものと見られている。
 現在では跡地に小学校が建ち、稜保式の石垣や水堀、御台所が遺構として残っている。
 幕末の動乱の中で築かれた城は、今は小学生達の元気のよい掛け声と共に余生を送っている。
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2008/8/13


湯築城 Yuzuki-Jou 

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 湯築城(ゆづきじょう)は、愛媛県松山市にあった城である。国指定史跡となっている。建武三(1336)年、河野通盛により築かれ、以後、伊予・河野氏の本拠となる。
 天正一二(1584)年、河野氏は、伸張してきた長宗我部の軍門に降る。翌年、豊臣秀吉の四国征伐によって湯築城は陥落した。同一五(1587)年、城主小早川隆景が転封し、福島正則が入城するが、居城を府中城へ移したため、湯築城は廃城となった。
 多くの中世城郭が消滅した中にあって、湯築城は市街地にありながら外堀・内堀・土塁など、ほぼ完全な姿を残す希有な例である。現在、城跡は道後公園となっており、武家屋敷や土塀などが復元されている他、土塁展示室で土塁の内部を見学することが出来る。
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2008/6/30


羽衣石城 Ueshi-Jo 

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 羽衣石城(うえしじょう)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町にあった山城である。
 正平二一(1366)年、南条貞宗によって標高376mの羽衣石山に築城され、以後、南条氏の拠点として使用された。
 山陰道と東郷池に臨む東伯耆の要衝にあり、尼子氏や毛利氏と激しい攻防を繰り返した。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の合戦で南条氏が敗れ、羽衣石城は廃城となる。
 昭和六(1931)年、南条氏の子孫の手により、山上に模擬天守が建てられた。
 現在、羽衣石城にはよく整備された模擬天守と物見櫓風の展望台があり、山頂部に本の丸、二の丸、三の丸を配置し、主郭部から西へ削平地が幾段も置かれ、東の尾根には2筋の堀切が残る。
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二俣城 Futamata-jou 

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 二俣城(ふたまたじょう)は、静岡県天竜市街地の北側、標高約一〇〇メートルのところにあり、天龍川と二俣川に囲まれ切り立ったところに立っている。徳川軍と武田軍による攻防の舞台となった城として知られている。
 文亀三(1503)年、二俣昌長(ふたまたまさなが)が築城したとされる。
 天正七(1579)年九月一五日、徳川家康の嫡男である松平三郎信康が城中で自刃したという悲話が残されている。この際、介錯に使われた刀が千子村正(せんごむらまさ)であった。村正とは、室町時代の刀工で、伊勢国桑名の住人。「妖刀村正」と呼ばれ、数々の伝説を残した名匠で、信康の自刃のほか、徳川家康の祖父・清康が殺害され、さらに関が原の戦いで家康自身も手に傷を負ったのが全て村正という。
 現在残っているものは、高さ約四、五メートルの天守台と、野面積み(のずらづみ)の石垣、本丸、二の丸、南・北曲輪、土塁などが残されている。
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小牧山城 Komakiyama-jou 

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 小牧山城(こまきやまじょう)は、愛知県小牧市の市街地西に位置する、標高約八六メートルの小牧山にある。
 桶狭間の合戦ののち、尾張平野の中に孤立した丘陵と、その麓を利用し、永禄六(1563)年に織田信長が築いた平山城である。
 信長の死後、天正一二(1584)年「小牧・長久手の戦い」において、豊臣秀吉と戦った織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍が大規模な改修を施し陣城とした。
 その後、小牧山は尾張藩によって入山が禁じられた。明治以後もこの規則は守られ、明治二二(1889)年に尾張徳川家に払い下げられた。
 昭和五(1930)年に尾張徳川家の徳川義親(とくがわよしちか)から小牧市に寄贈されて以後、自然公園として整備された。
 現在は城址公園となり、削平地や復元された空堀、土塁、旧虎口跡などがある。また山頂に展望台がわりの模擬天守が建っており、内部は歴史館となっている。
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