膳所城(石鹿城) Zeze-jou(Sekiroku-jou)
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滋賀県大津市の「膳所城(ぜぜじょう)」は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が慶長六(1601)年に藤堂高虎の縄張りで着工、諸国大名に命じて普請に当たらせた天下普請第一号の城である。
ここは京都の背面の守りと大坂方への備えとして、また東海、中山、北陸三街道の要所と琵琶湖上を制する為に築いたもので、琵琶湖湖中に石垣を築いて本丸と二の丸を突出させ、本丸西隅に四層四階の天守閣を持った水城であった。
まず、大津城の戸田一西が三万石で初代城主となり、元和三(1617)年に子の氏鉄が尼崎に転封となった際、西尾より本多康俊が入封。元和七(1621)年には菅沼定好と替わり、 寛永一一(1634)年、石川忠総が入封。 慶安四(1651)年、伊勢亀山より本多俊次が七万石で入封し、以後、明治まで本多家が続いた。
日本三大湖城の一つである。
ここは京都の背面の守りと大坂方への備えとして、また東海、中山、北陸三街道の要所と琵琶湖上を制する為に築いたもので、琵琶湖湖中に石垣を築いて本丸と二の丸を突出させ、本丸西隅に四層四階の天守閣を持った水城であった。
まず、大津城の戸田一西が三万石で初代城主となり、元和三(1617)年に子の氏鉄が尼崎に転封となった際、西尾より本多康俊が入封。元和七(1621)年には菅沼定好と替わり、 寛永一一(1634)年、石川忠総が入封。 慶安四(1651)年、伊勢亀山より本多俊次が七万石で入封し、以後、明治まで本多家が続いた。
日本三大湖城の一つである。
- 住所
- 520-0814 滋賀県大津市本丸町
- 名前
- 膳所城(石鹿城)