NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/22


上総国分寺跡 Kazusa-kokubunji-ato 

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 上総(かずさ)国分寺跡は、千葉県市原市惣社にある寺跡で、国の史跡に指定されている。
 国分寺は天平一三(741)年、聖武天皇の詔によって全国60余国に建立された国立寺院で、上総国分寺跡は寺域約13.9万平方mに及び、武蔵国分寺につぎ全国2番目の規模とされる。
 金堂・講堂・塔・中門・南大門・西門・回廊があり、飛鳥の大官大寺式伽藍配置をもつ。他に窯跡や寺を運営する付属施設が確認されている。現存しているものは国分寺・薬師堂・仁王門・将門塔で、高さ667mと推定される日本唯一の木造七重塔が建っていたと言われる。
 遺構からは鐙瓦(あぶみがわら)・文字瓦などが出土し、境内の文化財保存館に陳列されている。
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2008/3/31


福林寺跡 磨崖仏 Fukurin-ji^ato Magai-gutsu Magaibutsu at Fukurinji Temple Ruins

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 福林寺跡の磨崖仏(ふくりんじあとのまがいぶつ)とは、滋賀県野洲市(やすし)小篠原の静かな林の中に点在する磨崖仏群の事である。
 福林寺跡は野洲中学校の裏道から林道を入った静寂な地にあり、周辺には小磨崖仏が無造作に点在している。
 大きな岩に高さ約45cmの地蔵菩薩立像13体が平肉彫りされている磨崖仏や、阿弥陀如来像2体と観音立像1体が彫り出されているものなどがあり、どちらも室町時代初期の作とされ、小さいながらまるで木に彫ったように細かく繊細な造りが特徴とされる。
 他に、石仏もそこかしこに転がっており、異世界のような不思議な雰囲気を醸し出している。
 その昔は、辺りにはもっと多くの磨崖仏があったというが、明治・大正のころ、大阪の富豪が自宅の庭に持ち去ったと伝わる。
 福林寺跡の磨崖仏は、何とも神秘的で奇妙な場所である。
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2008/1/15


一之宮 貫前神社 Ichinomiya Nukisaki-jinja 

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 上野國一之宮。延喜式神名帳では名神大社に列する。
 一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)の開基については諸説あるが、安閑天皇の元(531)年頃と言われ、一般に多胡碑(たごひ)などで知られる甘良(甘楽)の谷の帰化人集団が祀ったのが始まりと見られている。
 赤城神社から一之宮の称号を譲られたと言われ、渡来系氏族による古代上毛野國征服を表すとも伝えられる。
 もとは貫前神と抜鉾神(ぬきほこのかみ)の二社二神であったが、両社が一社と混同されるようになったので明治に入り貫前神社と名乗り、戦後の社格廃止に伴い一宮貫前神社と改称したと言われる。
 参道を上り正面の鳥居をくぐって急な石段を下ったところに社殿が有る、という特異な構えが特徴で、勅額鳥居の東隣等に神宮寺跡の石垣が残る。社域は約九万平米。総門から見下ろす朱塗りの社殿と社叢の調和には息を飲む。
 寛永一二(1635)年に徳川幕府によって造営された、本殿、拝殿、楼門は重要文化財に指定されている。
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2007/11/12


浄厳院 Jougon-in Jogonin Temple

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 天正六(1578)年、織田信長は安土城の築城に伴い、近江の守護佐々木氏の菩提所であった慈恩寺跡地に新しく寺院を建立する。
 その際、人徳を慕っていた浄厳坊(じょうごんぼう)に住む応誉明感(おうよめいかん)上人をこの地に招き、浄厳院(じょうごんいん)とした。
 天正七(1579)年五月、この寺は浄土宗と日蓮宗の教義上の論争である、安土宗論(あづちしゅうろん)の舞台となる。両者間の論争のはずが、信長の政治的意図も絡み、法華宗は敗北し以後勢力を失った。
 浄土宗が勝利を得て唱えた「かちどき念仏」は、現在もこの院で毎年一一月に奉納されている。
 重厚な本堂は近江八幡市の興隆寺から移築し、入母屋造の楼門は旧慈恩寺の楼門を使用している。
 これら二点の建造物と、木造阿弥陀如来坐像、厨子入舎利塔(ずしいりしゃりとう)、厨子入銀造阿弥陀如来立像、絹本著色山王権現像(けんぽんちゃくしょくさんのうごんげんぞう)、絹本著色阿弥陀聖衆来迎図など七点が国指定重要文化財となっている。
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2007/10/31


鹿谷寺跡 Rokutan-ji-ato Rokutanji Temple Ruins

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 鹿谷寺跡(ろくたんじあと)は、大阪府南河内郡太子町にある寺院跡である。
 奈良時代に二上山山麓に造られた鹿谷寺は、凝灰岩の岩盤を掘り込んで作られた大陸風の石窟寺院であった。
 日本最古の本格的な石窟寺院と言われ、寺跡の中心部には、十三重の石塔と岩窟に彫りこまれた線刻の三尊仏坐像が遺されている。
 高さ5.2メートルの十三重石塔は、わが国最古の十三重石塔で、凝灰岩の地山を彫残して作られたものである。長年の風雨にさらされ、古色蒼然とし、古代の息遣いを感じさせている。
 東側の岩を掘って造られた岩窟内には、如来座像三体が線彫されている。こちらも風化がはなはだしく、一番左の如来座像の顔・胸部はすでに失われてしまっている。
 鹿谷寺跡は、日本では大変希少な、古代仏教関係の遺跡である。
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2007/9/19


一乗院跡 Ichijou-in-ato 

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 一乗院跡(いちじょういんあと)は、鹿児島県南さつま市坊津町にある寺跡である。県の文化財に指定されている。
 敏達天皇一二(583)年、百済の僧・日羅が仏教弘布のため建立したのが一乗院であり、その末寺は薩摩大隅の国内四七ヶ寺、坊津でも一八ヶ寺あったと言われる。
 日羅上人は自ら仏像三体を刻み、上中下の三坊舎を設けて安置した。坊津の名称は、これに由来する。
 長承二(1133)年、鳥羽上皇により上皇の願所となり、「如意珠山一乗院」の称号を賜る。
 延文二(1357)年に、成円上人が寺を島津氏の協力を得て中興し、天文一五(1545)年には後奈良上皇の願所となった。
 しかし明治二(1869)年、廃仏毀釈によって廃寺となり、現在は仁王石像一対と歴代上人の墓が残るのみとなっている。
 一乗院跡は、古の繁栄が偲ばれる史跡である。
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福昌寺跡 Fukushou-ji-ato 

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 鹿児島市にある福昌寺(ふくしょうじ)跡地は、現在の玉龍高校の裏手に位置している。
 応永元(1394)年、島津氏第七代当主・島津元久の要請により曹洞宗の高僧・石屋真梁(せきおくしんりょう)が建立し、以後島津家の菩提寺となった。
 江戸時代の絵図「三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)」には、幾重にも連なる建物と大回廊を持つ南九州屈指の大加羅として登場する。薩摩、大隅、日向の三州の僧侶を支配する僧録所もあり、千五百人の僧侶がいたという。
 天文一八(1549)年、島津貴久から宣教の許可を得たフランシスコ・ザビエルがこの福昌寺を宿所とし、当時の福昌寺住持であった忍室(にんじつ)と互いの宗教について親交を深めた。
 明治二(1869)年、神道国教・祭政一致、仏教施設の廃止という政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、貴重な建築群や歴代藩主が奉納した寺宝類もろとも破壊されてしまう。
 現在、周囲は掃き浄められ、緑に囲まれて島津家や歴代の高僧の美しい墓地群が残っている。
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2007/5/25


有珠善光寺 Usuzenkouji 

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 北海道道南の噴火湾に面して建つ「有珠善光寺(うすぜんこうじ)」は、1200年以上の歴史を持つ北海道最古の名刹である。
 その起こりは平安時代。天長三(826)年、慈覚大師が自ら刻んだ本尊阿弥陀如来を安置し、開基したと伝えられる。
 その後文化元(1804)年、徳川幕府により、江戸の芝増上寺の末寺として建立された。様似の等澍院、厚岸の国泰寺と並び、「蝦夷三官寺」と呼ばれたという。
 文政四(1822)年の有珠山大噴火で、貴重な宝物や記録を焼失。しかし、建物自体はほぼ原型をとどめたことから、昭和四九年に善光寺跡として国の史跡に認定された。
 古くから桜の名所として知られ、昭和初めには有珠駅前から寺までの道のり数キロに渡り、桜並木が続いていたという。現在ではその大部分が伐採されてしまっているが、今も境内に咲く桜を見に、多くの人々が訪れる。名木「石割桜」も見事だ。
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