NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/11


膳所焼 Zeze-yaki 

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 膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県大津市膳所で焼かれる陶器をいう。江戸初期に膳所藩のお庭焼として誕生し、藩主・石川忠総の時代(1634~1650年)に全盛期を迎えた。作品はすべて大名間の贈答用茶道具で、歴代藩主と親交の深かった大名茶人・小堀遠州の指導を受けて評判を上げ、茶人の間では遠州七窯の一つとして重宝された。
 以後は衰退したものの、大正八(1919)年に膳所焼の廃絶を惜しんだ地元の岩崎健三が、友人の画伯・山本春挙と手を組んで別邸に登り窯を築き再興。彼は生涯にわたって膳所焼の復興に尽力し、その甲斐あって窯の火を絶やすことなく今日に至っている。
 薄作りで黒みを帯びた鉄釉(てつゆう)に特徴があり、遠州好みの「きれいさび」と言われる上品な作りで、特に茶入と水指が名高い。現在は膳所焼美術館にて過去の作品を見ることができ、最近の作品を買うこともできる。
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2008/8/1


棗 Natsume 

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 棗(なつめ)は、茶器の一種で抹茶を入れるのに用いる木製の漆塗りの蓋物容器であり、植物の棗の実に形が似ていることからその名が付いたとされる。
 足利時代後期の塗師、羽田五郎により茶人、村田珠光に納めたものが最初とされるが、詳しい由来は定かではない。
 江戸時代初期までは棗が茶器に限らず用いられていたようで、元来は薬などを入れていた黒漆塗りの器の一種だと考えられており、茶器として一般に定着したのは千利休が好んだことも理由の一つとされている。
 こうした経緯もあって、単純な黒漆塗りのものだけでなく、茶室の趣ある書院飾りでも映えるように豪華な蒔絵が施されるようになり、今のような華やいだ茶器へと至ったとされている。
 その形も「利休型」と称される大棗・中棗・小棗を基本形として多くの種類が存在し、今も茶室の亭主座の傍らで、侘び・寂びの演出に一役買っている。
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2008/7/11


茶托 Chataku 

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 茶托(ちゃたく)とは、茶を飲む時に使用する、茶碗をのせる為の受け皿である。
 明から伝来した煎茶法を起源とする日本の煎茶道では、元々茶托に当たる物はなかったと考えられている。
 江戸時代中期に清から杯と杯台が輸入されるようになるが、日本の煎茶法でこの杯を茶碗に転用する際に、杯台が茶托に転じた物と考えられる。
 茶托とは受けとめるためにのみ存在する道具である。それ自体だけでは用をなさない故に、おろそかにされることも少なくない。
 自分で茶を飲むときには絶対に必要な物ではないが、客を接待する時には相手に対する敬意を表すために必ず使用する。
 日本茶碗は持ち手がないため、客が口をつけるところに直接手をつけてしまうのは非礼にあたる、という理由からといわれている。
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2008/7/9


宝瓶 Houhin 

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 宝瓶(ほうひん)とは、把手がないのが特徴の、煎茶道における急須の一種である。
 元は中国の江蘇省宜興で使われていた「茶壷」をモデルとしているといわれている。
 起源については諸説有るが、中国茶を抽出する道具の一種である蓋椀(がいわん)が元になったともいわれている。
 本来お茶を入れる道具に取っ手がないとやけどの原因になるが、宝瓶の場合は熱いお湯を使用しない玉露や高級煎茶を淹れる。また、通常の急須と比較して注ぎ口が大きく、取っ手がない事から携帯に適しているとして、旅行用の煎茶道具によく使われる。
 昔は、お茶は高級品で、お茶を宝としたために、この名前がついたとも言われている。
 宝瓶は、玉露などの低温のお茶をおいしく淹れる為の道具である。
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2008/7/1


急須 Kyuusu 

Jp

 急須(きゅうす)とは、葉茶を入れ湯を注いで煎じ出す、取っ手のついた小さな器である。
 古く中国では、酒の燗に用いた注ぎ口のある小鍋を「急須」といったが、転じて煎茶器として用いられるようになったという。
 日本では急須の主流を朱泥(しゅでい)、紫泥炻器(しでいせっき)が占めており、他に有田焼、九谷焼、瀬戸焼、薩摩焼などの磁器製も多く、また備前焼や丹波焼などの焼締炻器や、美濃焼、萩焼など陶器製のものなど、非常に多くの種類が生産されているという。
 お茶のうまみのもとは、茶葉の「より」にあるといわれ、このよりが適温のお湯によってほぐれ、うまみが溶け出すのである。従って、急須選びは、お茶の味わいを左右する重要な決め手となるといわれる。
 急須は、お茶をおいしく飲む為に重要な、中に茶葉を入れてお湯を注ぎ茶水を注ぐ、茶道具である。
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2008/5/19


茶杓 Chashaku Chashaku Teaspoon

Jp En

 茶杓(ちゃしゃく)とは、抹茶を茶器からすくって茶碗に入れるための茶匙(ちゃさじ)である。
 元々は中国で使用されていた金属製の薬匙で、芋の葉形の匙に柄をつけ、薬を破砕する目的でその根元の先は球状になっていた。
 やがて室町時代の末に茶の湯が成立すると、茶器を傷つける恐れのある金属製は適さなくなり、竹で作られるようになった。
 千利休(せんのりきゅう)の時代になると、慶首座(けいしゅそ)が利休の茶杓の下削りを行って節のある茶杓が出現し、慶首座の弟子・甫竹(ほちく)は利休の茶杓師として茶杓を確立した。
 茶杓には、一般的には苦竹科の竹が主に使われ、中でも晒竹が利用されることが多い。
 長さは17~21cmぐらいで、茶を掬う部分は幅1cm、長さ2cmほどの楕円形で、一方の辺を曲げた形状をしている。
 茶杓は、機能美が感じられる、伝統の茶道具である。
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2008/2/7


茶室 Chashitsu 

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 茶室(ちゃしつ)の歴史は室町幕府の八代将軍・足利義政が、京都大徳寺の一休禅師の門下、村田珠光(むらたしゅこう)と能阿弥(のうあみ)とその子芸阿弥(げいあみ)孫の相阿弥(そうあみ)の四人とともにそれまでとは違う、茶会の作法を編み出した時にはじまる。四人は広い座敷の中に一丈(十尺四方)の屏風で囲み、茶の道具である台子を前に行う台子手前で茶礼を行った。これが茶室のはじまりである。
 村田珠光の時代は書院風茶室であったが、武野紹鴎(たけの じょうおう)の時代には四畳半の茶室がつくられた。その後、千利休の時代になると屋根の形は入母屋から切妻へと変わり、壁も土壁、格子も細竹の連子と草庵の茶室に変わっていき、さらに、三畳から一畳半の広さで行う侘茶の作法と変わっていった。
 その後江戸時代にかけて活躍した古田織部(ふるたおりべ)が床の間をもつ四畳半台目の席を考案し、徳川将軍家の茶道指南役であった小堀遠州が完成させた。
 茶室とは日本文化が作り出した美と意識の交差する空間である
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2008/2/6


竹 Take 

Jp

 「竹(たけ)」はイネ科・タケ亜科に属する植物で、小型の「笹」に対して大型のものを言う。
 温暖で湿潤な気候や熱帯地域に多く生育していて、日本だけでも150以上もしくは600以上の種類があると言われている。これは学説の違いによるもので、どちらにしても竹の種類は数多いという事だ。その中でも代表的なものは、真竹(まだけ)や孟宗竹(もうそうちく)、淡竹(はちく)などで、日本各地で多く植栽されている。
 竹の成長はとても早く、1日で1m以上も伸びる事もある。その青々とまっすぐ伸びる様から、神事では榊(さかき)と共に清浄な植物の一つとされる。地鎮祭などで四隅に立てられる忌竹(いみだけ)や門松などに用いられるのもその為である。
 繊維質で弾力に富み細工が容易なその性質から、建材をはじめ簾(すだれ)や楽器、茶道具に至るまで様々なものに用いられ、古来から重宝されている。
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