NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/11


茶托 Chataku 

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 茶托(ちゃたく)とは、茶を飲む時に使用する、茶碗をのせる為の受け皿である。
 明から伝来した煎茶法を起源とする日本の煎茶道では、元々茶托に当たる物はなかったと考えられている。
 江戸時代中期に清から杯と杯台が輸入されるようになるが、日本の煎茶法でこの杯を茶碗に転用する際に、杯台が茶托に転じた物と考えられる。
 茶托とは受けとめるためにのみ存在する道具である。それ自体だけでは用をなさない故に、おろそかにされることも少なくない。
 自分で茶を飲むときには絶対に必要な物ではないが、客を接待する時には相手に対する敬意を表すために必ず使用する。
 日本茶碗は持ち手がないため、客が口をつけるところに直接手をつけてしまうのは非礼にあたる、という理由からといわれている。
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2008/7/1


急須 Kyuusu 

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 急須(きゅうす)とは、葉茶を入れ湯を注いで煎じ出す、取っ手のついた小さな器である。
 古く中国では、酒の燗に用いた注ぎ口のある小鍋を「急須」といったが、転じて煎茶器として用いられるようになったという。
 日本では急須の主流を朱泥(しゅでい)、紫泥炻器(しでいせっき)が占めており、他に有田焼、九谷焼、瀬戸焼、薩摩焼などの磁器製も多く、また備前焼や丹波焼などの焼締炻器や、美濃焼、萩焼など陶器製のものなど、非常に多くの種類が生産されているという。
 お茶のうまみのもとは、茶葉の「より」にあるといわれ、このよりが適温のお湯によってほぐれ、うまみが溶け出すのである。従って、急須選びは、お茶の味わいを左右する重要な決め手となるといわれる。
 急須は、お茶をおいしく飲む為に重要な、中に茶葉を入れてお湯を注ぎ茶水を注ぐ、茶道具である。
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2008/5/19


茶杓 Chashaku Chashaku Teaspoon

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 茶杓(ちゃしゃく)とは、抹茶を茶器からすくって茶碗に入れるための茶匙(ちゃさじ)である。
 元々は中国で使用されていた金属製の薬匙で、芋の葉形の匙に柄をつけ、薬を破砕する目的でその根元の先は球状になっていた。
 やがて室町時代の末に茶の湯が成立すると、茶器を傷つける恐れのある金属製は適さなくなり、竹で作られるようになった。
 千利休(せんのりきゅう)の時代になると、慶首座(けいしゅそ)が利休の茶杓の下削りを行って節のある茶杓が出現し、慶首座の弟子・甫竹(ほちく)は利休の茶杓師として茶杓を確立した。
 茶杓には、一般的には苦竹科の竹が主に使われ、中でも晒竹が利用されることが多い。
 長さは17~21cmぐらいで、茶を掬う部分は幅1cm、長さ2cmほどの楕円形で、一方の辺を曲げた形状をしている。
 茶杓は、機能美が感じられる、伝統の茶道具である。
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2008/2/7


茶室 Chashitsu 

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 茶室(ちゃしつ)の歴史は室町幕府の八代将軍・足利義政が、京都大徳寺の一休禅師の門下、村田珠光(むらたしゅこう)と能阿弥(のうあみ)とその子芸阿弥(げいあみ)孫の相阿弥(そうあみ)の四人とともにそれまでとは違う、茶会の作法を編み出した時にはじまる。四人は広い座敷の中に一丈(十尺四方)の屏風で囲み、茶の道具である台子を前に行う台子手前で茶礼を行った。これが茶室のはじまりである。
 村田珠光の時代は書院風茶室であったが、武野紹鴎(たけの じょうおう)の時代には四畳半の茶室がつくられた。その後、千利休の時代になると屋根の形は入母屋から切妻へと変わり、壁も土壁、格子も細竹の連子と草庵の茶室に変わっていき、さらに、三畳から一畳半の広さで行う侘茶の作法と変わっていった。
 その後江戸時代にかけて活躍した古田織部(ふるたおりべ)が床の間をもつ四畳半台目の席を考案し、徳川将軍家の茶道指南役であった小堀遠州が完成させた。
 茶室とは日本文化が作り出した美と意識の交差する空間である
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2008/1/24


山田常山(人間国宝) YamadaJouzan 

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 三代・山田常山(やまだじょうざん・1924~2005)は、常滑焼の陶芸家である。ロクロによる急須作りの技法を習得し、常滑焼の技術を受け継いだ。
 大正一三(1924)年一〇月一日、愛知県常滑市生まれ。昭和一六(1941)年 愛知県立常滑工業学校窯業科卒業。在学中に祖父である初代・山田常山に制作を学ぶ。
 昭和三三(1958)年、第五回日本伝統工芸展に初入選。昭和三六(1961)年 名古屋丸栄にて初の個展を開催し、三代・山田常山を襲名する。
 平成六(1994)年、朱泥急須で愛知県指定無形文化財保持者になり、平成一〇(1998)年、常滑焼の急須で愛知県初の人間国宝に認定される。
 三代が作る急須には、古典的なものからモダンなものまで、百種類以上の形があるといわれる。そのほか、煎茶、玉露茶を入れるお茶道具類など、どれも伝統的技術や美しい存在感、使い良さを追求した素晴らしい作品である。
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2007/12/4


茶碗 Chawan 

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 茶碗(ちゃわん)とは、現代では普通、ご飯を盛る陶磁器の器の事を指す。
 元々は茶を喫するための器として、奈良時代から平安時代にかけ、茶と共に伝来したとされる。
 当初、貴重な茶を楽しむための良質な器を茶碗と言ったが、鎌倉時代、喫茶の風習が広まるにつれ、碗形の陶磁器の総称となった。
 やがて、茶碗が陶磁器の総称となったため、ご飯を盛る器を飯茶碗、お茶を飲むための器を煎茶碗などと呼ぶようになった。
 茶碗の形状は、碗形のものが多いが、筒形や平形、輪形、半筒、端反、沓形などがある。また、天目形、井戸形のように茶碗の特徴が形状名になっているものもある。逆にその形状から筒茶碗、平茶碗等と呼ばれる茶碗もある。
 茶碗は、日本の一般的な食生活に欠かせない、陶磁器である。
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2007/9/7


茶の湯釜 Cha-no-yugama Chonoyugama Tea Kettle

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 茶の湯釜(ちゃのゆがま)は、日本の伝統的工芸品であると同時に、茶の湯の世界では非常に重要な位置を占めるものであり、茶会を開くことを「釜を掛ける」というほど、茶の湯においては大切な道具である。
 それら茶の湯釜の製造の八割が山形県産といわれ、山形県山形市とその周辺に伝わる鋳物としては、昭和五〇(1975)年に、経済産業省から伝統的工芸品に指定されている。
 山形で茶の湯釜に代表される鋳物が盛んになったのは平安時代にまで遡り、康平年間(1058~1064)における前九年の役を治めるため、山形に訪れた源頼義に帯同した鋳物職人が、山形市を流れる馬見ヶ崎川周辺の土質に鋳物製作に適することを見出し、一部がこの地に留まって製作したのが始まりといわれている。
 きめの粗いゴツゴツとした肌が特徴で、現在も紋様押しや肌打、金気止などの様々な伝統的手法が受け継がれ、素朴な佇まいの中にも重厚な存在感を発する作品を精力的に生み出している。
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2007/7/31


梅花祭 Baika-sai 

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 梅花祭(ばいかさい)は、古都京都にふさわしい、歴史と伝統のある北野天満宮の祭典。「梅花御供(ばいかのごく)」の神事、皇后陛下の御代拝が行われる。
 北野天満宮は天暦元(947)年、菅原道真公の御霊を鎮めるために創建された神社であるが、この祭りは御祭神道真公の祥月命日である二月二五日に行われるようになったのが始まりで、古くは「菜種御供(なたねのごく)」と呼ばれていた。
 ご祭神を「なだめる」という意味と菜種の語音が通じるということで菜種の花を供えていたものが、明治以降新暦の二月に行なわれるようになったことから梅の花を用いるようになり、次第に「梅花御供」と呼ばれるようになったという。今でも神職などは、冠に菜の花をつけてご奉仕を行う。
 当日は豊臣秀吉公が北野大茶湯を催したことに因んで「梅花祭野点大茶湯」が催され、花街から北野天満宮にゆかりの上七軒総出で執り行われる。野点茶席が設けられ、満開の梅の花とともに芸妓や女将が奉仕してくれるという優雅な催しである。
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