NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/1/8


山王 日枝神社 Sanno-Hiejinja Sanno Hie Shrine

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 東京都永田町にある日枝神社は、文明一〇年(1478)、太田道灌公が江戸城を築城するにあたり、鎮護の神として日吉社を勧請したのに始まるとされている。
  その後、徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って『城内鎮守の社』として、また市民からは『江戸の産神』として崇敬されることとなる。
 当初は江戸城敷地内にあり、一般参拝は出来なかったが、 二代将軍秀忠公の江戸城改築にあたり、江戸城外に遷座され、庶民の参拝が可能となった。
 毎年六月に行われる山王祭は、三代将軍家光公以来、歴代の将軍が上覧拝礼する『天下祭り』として、神田明神の神田祭、富岡八幡宮深川八幡祭りとともに江戸三大祭の筆頭として長く親しまれている。
 威勢の良い下町の江戸っ子の中には、『山王祭はお上品過ぎるねぇ』といわれる方もいるが、もし時間があるのなら、江戸の祭りをはしごしてみるのも一興かもしれない。
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2007/10/17


青木村 日吉神社 Aoki-mura Hiyoshi-jinja Hiyoshi Shrine in Aoki Village

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 長野県小県郡青木村にある日吉神社(ひよしじんじゃ)は、伝承によると創建は南北朝時代とされている。
 本殿は五間社流造で、階段や脇障子のない見世棚造り。桟瓦葺(さんがわらぶき)を用いており、横に長いシルエットも特徴のひとつ。そして扉口は中央柱間に一つだけという、大変めずらしい型式である。
 平成二(1990)年に長野県の県宝に指定された。
 以前は、朱などの鮮やかな色彩で装飾が施されていたが、現在では素材の木そのものの色となっており、情緒ある静かな佇まいを見せている。
 真っ赤に塗られた鳥居から社地を通り、石段を上りきったところに建立されている社殿は、深森のなかに、まるでオブジェのように建っている。
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2007/10/4


十三湖 Jusanko Lake Jusan

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 十三湖(じゅうさんこ)は、青森県五所川原市十三に広がる周囲30km、面積2060ヘクタール、水深3m前後の静かな汽水湖である。
 海水と淡水が混合した汽水湖で十三潟とも呼ばれ、青森県で3番目の大きさを誇り、シジミが多く採れる湖として知られている。
 鎌倉時代から室町時代にかけて、日本海沿岸の交易港「十三湊」のあった場所であり、津軽地方の有力豪族であった安倍氏・安藤氏の拠点として広く海外と貿易を行いながら全国屈指の港町を築き、栄えたが、近世以前に衰退した。
 その歴史を語りつぐように、今もなお十三湖周辺には山王坊日吉神社(さんのうぼうひえじんじゃ)の京風二重鳥居、十三宗寺、安藤一族の居城・福島城跡など、数多くの史跡が残されている。
 十三湖は、かつて国際港として栄えた落ち着いた風情の湖である。
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沼津 日枝神社 Numazu Hie-jinja Hie Shrine in Numazu

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 沼津日枝(ぬまづひえ)神社は、静岡県の沼津市に鎮座し明治に至るまで近郷近在二二ヶ村の総鎮守であった。
 嘉保二(1095)年、比叡山の天台僧兵の強訴に対し関白・藤原師通(ふじわらのもろみち)が兵を向け僧兵に負傷者が出たため、師通は呪詛により急逝してしまう。この事件の翌年の永長元(1096)年、師通の母によって所領地で大岡庄と呼ばれていた現在の地に勧請したのが始まりとされる。
 山王信仰に基づいて京都の日吉神社より大山咋神、大己貴神、大歳神の三座を分祀して建立されたため、山王社とも称される。
 同社には国の重要文化財に指定されている「紙本着色山王霊験記(しほんちゃくしょくさんのうれいけんき)」の一巻が保存されているほか、数多くの古文書類が残されていることでも知られ、境内には同社を訪れた松尾芭蕉の句碑もある。
 毎年の九月二三日からの二日間には例大祭も催され、沼津の秋の風物詩として、「山王さん」の愛称と共に今も地域の人々に親しまれている神社である。
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2007/9/28


拝島 日吉神社 祭礼 Haijima Hiyoshi-jinja Sairei 

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 拝島の日吉神社祭礼(ひよしじんじゃさいれい)は、東京都の拝島町にある日吉神社で毎年の九月第三土日に行われる例祭であり、土曜日が宵宮、日曜日が本宮という。
 明和年間(1751~1771)に関東一円で起こった農民一揆を鎮めるための「世直し祭り」がその起源といわれる。
 前夜祭である宵宮では、周辺各町の山車が町内を練り歩き、山車と山車が出会うと祭囃子の合戦が始まり、祭の雰囲気を一層高める。
 本宮では榊神輿(さかきみこし)が、同日午後から始まるご神幸の露払いとして、日曜の午前零時から出立、夜の町内を練り歩く。
 高さ5mにもなる榊神輿の枝葉には無数の紙垂(しで)が飾られ、その頂には心筒(しんとう)が結わえられる。明け方近くに神輿が神社に戻ると、若連と呼ばれる若者達が無病息災を招くという紙垂のついた枝や、頂上にある心筒の争奪戦を始める。
 「榊まつり」や「暁の祭り」とも呼ばれる勇壮な神事は、この地域の風物詩として、今も親しまれている。
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2007/8/29


日吉神社 三重塔 Hiyoshi-jinja Sanjuu-no-tou 

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 濃尾平野の北西部、大垣市に隣接する神戸町(ごうどちょう)に日吉神社がある。弘仁八(817)年、最澄が東国に天台宗を広めるためこの地に立ち寄った際に創建したといわれ、近江坂本の日吉大権現を主神として七柱の神を祀り、往時は八人の社僧を抱え、比叡山と共に栄えてきた。
 この神社には、室町時代の建築様式を申し分なく発揮した貴重な三重塔が現存する。永正年間(1504~1520年)に斉藤利綱が建立し、天正十三(1585)年に稲葉一鉄が修造した。
 三重塔は各層の平面がやや小さく、その分、軒が深く感じられる。全体のバランスは良いものの、二層には設けられている高欄を付した縁が三層にはなく、その理由は不明。檜皮葺屋根や、すらりと伸びた型通りの鉄製の相輪が美しい。
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2007/6/20


猿賀神社 Saruka-jinja 

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 猿賀神社(さるかじんじゃ)は、青森県平川市猿賀にある神社である。祭神は、上毛野君田道命。
 猿賀の語源は、アイヌ語で変化神を意味する「サラクカムイ」に由来するといわれている。
 仁徳天皇五五(367)年、蝦夷討伐の将である田道が敗死し、後に蝦夷が墓を暴くと遺体が大蛇と化したので、人々は恐れて猿賀野に祀ったと伝わる。
 大同二(807)年、蝦夷征伐のため北上した坂上田村麻呂が勝利を祝い、田道を祀る祠と社殿を造り「神蛇宮」として建立したのが神社のはじまりとされている。
 江戸時代には藩主・津軽為信により祈願所と定められ、繁盛した。
 現在、神社の参道にはかつての別当寺である神宮寺があり、境内には本殿の他、胸肩神社、日吉神社、池上神社等が配されている。
 秋の例大祭では、勇壮な民俗芸能の獅子踊りが奉納される。
 猿賀神社は、農漁業、交通守護神、眼の守護神として信仰を集める古社である。
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2007/5/8


御幸行列 Miyuki-Gyouretsu Miyuki Parade

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 御幸行列(みゆきぎょうれつ)は、鳥取県倉吉市関金町に伝わる祭りである。
 日吉神社・湯関神社・大鳥居神社の三社の大祭に催される「神輿渡御」の行列(三社の神輿が神社から御旅所への渡御に際して行う神事)が、御幸行列である。
 三社それぞれに伝統の型やしきたりがあり、先頭の湯関神社は道中行列の形式、次の大鳥居神社は登城の形式、最後の日吉神社が下城の形式をあらわし、それぞれの神社から出発し、約1.5kmを、総勢85名が練り歩く。
 三社の神輿の供奉行列が参勤交代の供揃いに似ている所から、大名行列とも呼ばれており、行列の次第・その技・振りなどは大名行列の様をかいまみる事のできる、珍しい民俗行事と言われている。
 御幸行列は、毎年9年15日に行われる、江戸時代から続く伝統の例大祭である。
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