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2007/10/12


志戸呂焼 Shitoro-yaki Shitoro Ware

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 志戸呂焼(しとろやき)は、静岡県島田市金谷(旧金谷町)で焼かれている陶器である。
 16世紀の室町時代末期に、美濃の陶工が志戸呂郷に窯を築いたのが始まりといわれ、天正一六(1588)年には、徳川家康より焼物商売免許の朱印状を授けられ、江戸時代初期にかけて広がった。
 茶人大名として名高い小堀遠州が「遠州七窯」の一つに志戸呂窯を数えた事から、一躍天下にその名を知られるようになる。
 志戸呂焼は、渋みと深みがある古式豊かな風情を漂わせている焼物である。素朴な色合いで、飾る花や他の器などとの取合せを気にさせないのが特徴といえる。
 名器と呼ばれる壺の裏には「祖母懐」や「姥懐」の刻銘がある事は有名である。
 志戸呂焼は、堅牢で湿気を寄せ付けない性質で、現在も茶壺や茶器を中心に焼かれている。
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2007/6/13


宮崎漆器 Miyazaki-shikki Miyazaki Lacquer Ware

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 宮崎県で作られている漆器で、県の伝統工芸品に指定されている。
 沖縄で室町時代から始まったとされる、琉球塗りがその源流である。首里城門などにも琉球塗りの技術を見ることができる。
 太平洋戦争末期、沖縄から宮崎県に移住してきた琉球漆器の技術者達を中心に、雇用など地域に貢献する形で制作をはじめ、宮崎漆器として成り立つようになり、現在にいたる。
 宮崎県は高温多湿であり漆の乾燥に適し、下地となる漆の塗布は非常に重要な作業であり、これによって堅牢なものになる。
 さらに中塗り、上塗りと漆を塗り、色漆を塗っていく。朱塗りの色が冴えているのも、宮崎漆器の特徴の一つだ。
 装飾には堆錦という漆と顔料を混合したものを、金槌でたたき、ゴム状にしたものを、柄にあわせ切り、製品に貼り付けるいう独特の絵付け方法を行い完成となる。
 盆、茶托、菓子皿や文箱などが作られ、県の内外で愛用されている。
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2007/5/9


岐阜 大垣城 Gifu oogakijo Ogaki Castle

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 岐阜県大垣市郭町にある平城。関が原の合戦で西軍の石田三成が本拠地としたことでも知られる。
 明応九(1500)年、宇多源氏の末裔にあたる佐々木信綱の子孫、竹腰彦五郎尚綱により築城。
 永禄二(1559)年、竹腰重吉が斎藤道三に敗れた後、城主は目まぐるしく代わる。慶長五(1600)年の関が原の合戦で、城主の石田三成が敗れたことにより大垣城は落城。江戸時代に入り、寛永十二(1635)年に戸田氏鉄が城主となって以来、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となる。
 大垣城の天守閣は四層四階の堅牢かつ優美な城として遠近に名高かかったという。しかし、第二次世界大戦で焼失、現在の天守は昭和三四年に再建されたものだ。現在では天守内部は歴史資料館となっており、歴史の教科書的存在として多くの市民に親しまれている。
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2007/4/13


加賀竿 Kaga-zao Kaga Fishing Rod

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 石川県加賀市には、「加賀竿」という伝統工芸品がある。江戸時代から技術を伝承してきた高級釣竿だ。
 江戸時代、浅野川の清流では、武士に対し、「釣り」を「健康増進」を目的として奨励していた。鮎釣りは武士にのみ許された特権であり、その竿さばきは剣術にも通じるところがあるなど、隠れた武芸の鍛錬の場でもあった。
 鮎釣りには堅牢な釣り竿が求められ、元禄の頃から竿師が登場するようになったという。やがて漆塗りや加飾が施されるようになり、現在の加賀竿の原型が形成された。
 加賀竿は2年生の竹を高熱加工して強靭さを加え、漆を数回から十数回に渡り塗り重ねる。質実剛健を旨とするため、華美な装飾を避け、黒呂色(くろろいろ)を基調とする。
 しなやかで腰の強い竹の加賀竿は本物志向の人々の支持を集め、最高級の釣竿として今も根強い人気を持つ。
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2007/4/10


川連漆器 Kawatsura-shikki 

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 川連漆器(かわつらしっき)は秋田県雄勝郡に伝わる漆器で、経済産業大臣指定の伝統工芸品である。
 歴史は古く、鎌倉時代この地を支配していた稲庭(いなにわ)城主、小野寺重道の弟、道矩の命により、家臣に武具に漆を塗る内職を行わせたのが始まりとされる。
 江戸時代中期に入り、農家の内職として碗などの漆器が造られ、江戸時代後期には藩の支援を受け、広く全国に広められた。
 下地を重点的に行うのが特徴であり、地塗り、花塗りなどの三十に及ぶ工程で行われる。非常に堅牢で、価格が手頃な事から多くの種類の製品が存在する。
 現在も普段使いの日用品として広く用いられ、多くの愛用者を持つ工芸品である。
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2007/2/23


大川総桐タンス Ookawa-soukiri-tansu Okawa Paulownia Chest

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 大川総桐タンスは、福岡県大川市にて作られる伝統家具である。
 大川市は、発祥から470年余りの歴史を誇る、日本一の家具生産地である。
 筑後川の下流である大川は、木材の集積地であった。室町時代、榎津久米之介が船大工の技術を生かして指物を始め、江戸後期には田ノ上嘉作が唐やオランダの技術を学び、大川家具の礎を築いた。
 総桐タンスは、木目の美しさ、防湿性のよさ、水をかけると燃えにくいなどの特性をもつ。
 更に大川産の桐タンスは、内部が泥棒よけのからくり仕掛けになっており、金具などにも独特の工夫を施している。
 桐板の中でも最上の柾目板を使ったこのタンスは、堅牢でどっしりした重量感が持ち味である。
 大川総桐タンスは、高級感あふれる伝統の逸品である。
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2007/2/20


杵築城 Kitsuki-jyo 

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 杵築城は、大分県杵築市杵築にあった城である。
 明徳4(1393)年、杵築城は、大友氏の一族である木付頼直によって築かれた。
 天正14(1584)年、島津家久の大軍が攻め寄せるが、籠城の末に耐えて、勝利を得る。
 豊臣秀吉によって大友義統が改易されると、木村氏も杵築城から追い出され、後に滅亡した。その後、次々と城主が入れ替わる。
 正保2(1645)年、松平英親が入城し、以後は明治維新まで松平家の居城となった。
 明治4(1871)年、廃藩置県により、廃城となる。
 杵築城は、八坂川河口の台山に築かれており、三方を海と川に囲まれる天然の要害であった。
 現在、城跡は公園になっており、本丸跡に復興天守閣が建つ。
 杵築城は、戦乱に揺れた昔を偲ばせる、堅牢な城である。
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2007/2/2


牛首紬 Ushikubi-tsumugi Ushikubi-tsumugi Pongee

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 石川県白山市白峰の牛首で生産される紬。
 白山の伏流水を源とする手取川水系の水を使い、選別された玉繭を原料として、全ての行程が手作りで作られる。繭を煮込み、そこから直接手で糸を紡ぎ出し、丹念に機織され、紬の中でもその強さで有名でもある。
 その起源は、伝説的なものではあるが、平治の乱に破れた源氏の落人、大畠氏の妻が、機織りの技術を伝えたといわれている。
 牛首紬は、その堅牢さから、江戸時代には全国で重宝され、明治の中期から昭和初期にかけては、生産は右肩上がりであったが、経済不況から戦争への流れの中、急速に衰退し本格的な紬産業は、一時期姿を消してしまう。
 その後、養蚕は再開され、牛首紬の再興に成功。現在では、高級紬の代表的なものとして、愛用されている。
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