NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/12


旗印染 Hatashirushi-zome 

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 旗印染(はたしるしぞめ)は京都で古くから伝わるもので、旗やのぼりなどに固有名の文字や紋章、記号などを染め出す技術のことである。
 文献によると旗は卑弥呼の時代からすでに登場し、のぼりは応仁の乱には使用されていたと記されている。
 技法は型を使ってのりを置き、染めてからのりを落とす型染め(かたぞめ)という方法で文様をうかび上がらせるものである。
 旗印染は非常に繊細な作業と大胆な作業を持ち合わせた、技術の高い染色方法である。中世に活躍した藍染専門の職人たちを称した紺屋(こんや)が作り上げていったものといわれている。
 その後、時代の遍歴とともに旗印染は旗やのぼり以外に風呂敷、ふくさ、印ばんてん、ゆかた、のれんなど、その用途は広がりをみせ、今日までその技術は京都で受け継がれている。
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2008/2/7


今熊野観音寺 Imakumano-kannon-ji 

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 西国三十三所観音霊場の第一五番札所の今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)は、京都府京都市にある泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭(たっちゅう)で知られる。
 平安時代初期、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が創建したと伝えられている。
 本堂にあるご本尊は、弘法大師が自ら彫刻したと伝えられている十一面観世音菩薩で、弘法大師が東寺で修行中、山中で熊野権現の化身である翁に出会い、その翁より一寸八分の観音像を授り、体内仏として安置したといわれている。
 脇仏は不動明王と毘沙門天で、本尊と共に信仰を集めている。文暦元(1234)年、後堀河上皇をこの寺に葬り、代々の朝廷の崇敬を得ていた。
 応保元(1616)年、後白河法皇の熊野勧請以来繁栄したが、応仁の乱のときに荒廃した。その後、正徳年間(1711~1716)に勧進復興された。後白河法皇の病気治癒の伝説から、中風や頭痛平癒にご利益があるといわれている。
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大本山妙心寺 Daihonzan-Myoushin-ji 

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 大本山妙心寺(だいほんざんみょうしんじ)は、京都府右京区にある、室町時代創建の古刹だ。
 康永元年でもある暦応五(1342)年、花園法皇を開基とし、法皇の離宮があった現在の地に創建された。
 当時、室町幕府の庇護下にあった一派を「禅林」または「叢林」(そうりん)と呼び、それ以外を「林下」(りんか)と呼んでいた。
 妙心寺は、厳しい修行を重視する禅風を持つ「林下」の代表的寺院でもある。
 足利義満の弾圧にあい、応仁の乱で伽藍を焼失するも、復興を成し遂げ、以後は細川家や豊臣家など武家の篤い信仰を得て、今に至っている。
 広い境内は南の勅使門から山門や仏殿、法堂が一直線に並び、禅宗特有の七堂伽藍による壮大な景観を生み出している。
 法堂の天井には、狩野探幽作といわれる通称「八方にらみの龍」雲龍図があり、日本最古の梵鐘や古文書及び絵画等の文化財なども著しい数にのぼり、日本における禅文化の一大宝庫となっている。
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2008/2/6


善峯寺 Yoshimine-dera 

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 善峯寺(よしみねでら)は、京都西京区にある寺で、西国三十三観音霊場の第二十番札所にも指定されている。
 長元二(1029)年、源算上人によって開山されたのがその始まりで、長元七(1034)年には後一条天皇より国家鎮護の勅願所とされ「良峯寺」の寺号を賜ることとなる。
 その後の鎌倉時代初期に、後鳥羽上皇から直筆の寺額を賜ったことにより、現在の善峯寺に改められた。
 応仁の乱で焼失してしまったものの江戸時代に入り、五大将軍綱吉の母であった桂昌院の援助により再建がなされた。現在に残っている伽藍の多くはこの時再建されたものである。
 その敷地は広大で西山随一とも謳われ、また高低差のある起伏に富んだ境内は四季の花々で美しく彩られ、国の天然記念物にも指定されている五葉の松などが訪れる人を楽しませてくれる。
 開祖である源算上人は一一七歳という長寿を全うしたとされ、病気平癒や長寿、健康のご利益でも知られる名刹である。
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2007/10/31


随心院 Zuishin-in 

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 随心院(ずいしんいん)は、正暦二(991)年、仁海僧正が牛皮山曼茶羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)を創建したのがはじまりである。
 鎌倉時代の寛喜元(1229)年、後堀河天皇から門跡の宣旨をうけ、随心院門跡となる。承久・応仁の乱により焼け野原になってしまうが、江戸時代の慶長四(1596)年、九条家と二条家の両宮家から門跡が入山され再興した。
 この周辺は、この地方の勢力者である小野一族の土地であった。隋心院境内は小町の旧跡と伝え、小町は現在の随心院にある「小町化粧の井戸」付近に住んでいたといわれている。
 総門をくぐると右に梅園がある。随心院の紅梅は「はねず」という薄紅色を意味する名で呼ばれている。三月下旬には百夜通いの話で有名な小野小町と深草少将(ふかくさのしょうしょう)の物語を主題とした「はねず踊り」が催される。小町に想いを寄せて通いつめた深草少将が、小町のところへ通い続けた九十九夜目の雪の日、門前で疲れきって倒れ、再起できなかったという話が伝えられている。
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渡月橋 Togetsu-kyou 

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 「渡月橋(とげつきょう)」は、京都嵐山の桂川に架かる、全長一五五メートルの橋である。
 別名「嵐橋」とも呼ばれるこの橋は、承和三(836)年、弘法大師の弟子である道昌(どうしょう)が、大堰川(おおいがわ)修復のとき架橋したものである。
 亀山上皇が、曇ひとつない夜空に、まるで月が橋を渡るかのような風景をみて「くまなき月の渡るに似る」とひと言もらしたことから「渡月橋」の名がついたといわれている。
 この橋は、応仁の乱での焼失や洪水などで幾度か再建されたが、慶長一一(1606)年に角倉了以(すみのくらりょうい)によって現在の位置に架けかえられた。
 現在の橋は昭和九(1934)年に鉄橋として改修されたものだが、橋の欄干(らんかん)や桁隠しやは木製を使い、昔の面影を今に伝えている。
 渡月橋の南には、桜の名所で全国的に有名な標高三七五メートルの嵐山がある。お花見や新緑、紅葉や雪景色など、まさに四季折々の素晴らしい景観が楽しめる場所である。

 
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2007/10/23


廬山寺 Rozan-ji 

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 廬山寺(ろざんじ)は、京都市上京区寺町通広小路にある圓浄宗本山の寺院。本尊は平安時代作の阿弥陀如来。
 天慶元(938)年、比叡山天台一八世座主・元三大師良源によって、平安京の中心軸「朱雀大路」の延長線上に位置する船岡山の南に創建。寛元年間(1243~46)に僧・覚瑜が再興し、中国の廬山にならって廬山天台講寺と号した。応仁の乱で焼失。その後、信長の焼き討ちは免れたが、後に秀吉により現在地に移される。
 平安時代には、紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)の邸宅があった場所で、紫式部はこの地で育ち、ここで「源氏物語」「紫式部日記」などを執筆したと伝えられている。紫式部にちなんだ源氏の庭は砂の白と苔の緑が巧みに配され、そこに清楚な桔梗が色を添え、他に類を見ない気品のある見事な庭園となっている。
 また、京都北山に聖徳太子が建立した金山天王寺の本尊の如意輪観音菩薩と脇侍の毘沙門天像は、明治以降、この廬山寺に安置され洛陽三十三ヶ所観音霊場や京都七福神として信仰を集めている。
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2007/10/1


長興寺(愛知県豊田市) Choukou-ji (Aichi-ken Toyota-shi) Chokoji Temple

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 豊田市の長興寺(とよたしのちょうこうじ)は、愛知県豊田市長興寺にある臨済宗東福寺派の別格寺院である。本尊は、十一面観世音菩薩。
 南北朝期の建武二(1335)年、挙母城主・中条備前守秀長がその菩提寺として建立した。
 集雲山と号し、七堂伽藍を完備して南北5丁、東西4丁、18坊に及ぶ塔頭が建ち並ぶ威容を誇り、本朝名刹の寺位を許された。
 応仁の乱の後、中條氏が衰退するにつれて寺勢も衰え、戦国時代の永禄一〇(1567)年、織田信長の兵火にあって焼失した。
 しかし信長の家臣・余語正勝によってすぐに再興され、正勝は信長の死後、狩野元秀に現在、国の指定文化財となっている信長の肖像画を描かせ、寺宝とした。
 豊田市の長興寺は、他にも文化財などを多く抱える、長い歴史を誇る寺院である。
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