NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/5


弥彦神社 yahiko-jinjya yahiko Shrine

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 越後平野の中央にそびえ立つ弥彦山の麓に、弥彦(伊夜比古)神社(やひこ(いやひこ)じんじゃ)はある。越後国の一ノ宮である。
 境内はうっそうとした樹林に覆われ、長い月日を経てきた老杉、古欅が佇んでいる。その創建年代は不詳だが、万葉集にも歌われたほどの古社。
 祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。神武天皇の命を受け、越後国開拓のため地元の民に、漁労や製塩、稲作や養蚕などの農耕術を教えたという。かつては、伊夜比古さまと呼ばれ、越後の人々の心のふるさと、魂のよりどころとして、古くから栄えてきた。
 日本有数の長い日本刀である志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)や、源義家や源義経らに所以すると伝えられる武具などの文物が、社宝として宝物館に展示されている。
 現在の社殿は、火災のために焼失した後、大正五(1916)年に再建されたものである。
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2008/2/15


川崎和男 Kawasaki Kazuo Kawasaki Kazuo

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 1949年福井県生まれ。デザインディレクター。医学博士。
 金沢美術工芸大学産業美術学科卒業後、東芝に入社。伝説のオーディオAurexをロゴを含めて手がけたのち、1979年に独立。2年後には地元、福井に拠点を移す。以降、ナイフ、液晶テレビ、眼鏡、人工心臓にいたるまで多岐にわたる製品のデザイン、研究を進める。
 2001~03年まで、グッドデザイン賞審査委員長。現在、大阪大学大学院工学系研究科教授のほか、同大学コミュニケーションデザインセンター、未来医療センター、フロンティア研究センターの各教授も兼務する。
 デザイナーとは「理想主義を、具体的に目に見える形で提案できる職業」だとし、数学、サイエンス、テクノロジー、アート、すべてを導入して、冷徹に、そして厳密に現実を構築していく。
 DESIGN A DREAM デザインの力で世界を変えることができると、本気で信じているデザインディレクターが、日本には少なくとも一人は、いる。
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2008/1/17


会津塗 Aizu-nuri 

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 会津塗(あいづぬり)は福島県会津若松市を中心に生産される漆器で、椀、重箱、茶托(ちゃたく)、盆などがある。昭和五〇(1975)年、通産大臣(現経済産業大臣)により伝統的工芸品に指定された。
 安土桃山時代に、豊臣秀吉の命を受けて会津の領主となった蒲生氏郷(がもううじさと)が、産業として奨励したことに始まる。近江の漆器職人を呼び寄せ、その技法を会津に広めた結果、漆器は会津の一大産業となった。
 幕末の戊辰戦争で壊滅的な打撃を受けるも、明治時代中期には再び活気を取り戻し、会津は日本有数の漆器産地として、今もその名をとどろかせている。
 工程によって、それぞれの専門職人が分業で行うのが特徴。そのため、より高い品質と能率的な生産を実現している。椀などロクロを使用して丸物を作る木地師(きじし)、重箱などカンナを駆使して板物を作る惣輪師(そうわし)、それらに豪華な飾りを施す蒔絵師(まきえし)・漆絵師(うるしえし)・沈金師(ちんきんし)がいる。縁起の良い図柄で人気が高い。
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2007/12/26


岩槻人形 Iwatsuki-ningyou 

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 岩槻人形(いわつきにんぎょう)は、埼玉県の岩槻で古くから作り続けられている桐塑人形(とうそにんぎょう)である。
 岩槻の周辺は古来から桐の産地であり、箪笥や下駄の生産が盛んであった。
 そこに、日光東照宮の造営に当たっていた工匠たちが留まり、そうした桐細工物の加工で出た桐の粉を糊と練り固めて人形を作ったのが始まりといわれている。
 また、岩槻の水が人形の顔を塗る胡粉を溶くのに適していたことも幸いしたといわれている。
 壊れにくい上に量産も可能であり、精巧度も高いことから岩槻を中心に急速に発達。また、すぐ近くに江戸という一大市場があったこともその発展に影響したといわれている。
 江戸中期以降では、人形造りは藩士の内職として盛んに行われるようになり、藩の専売品にもなっていた。
 現在でも岩槻の代表産業の一つであり、平成一九年には国の伝統的工芸品にも指定され、その白く、細やかで美しい人形を生み出し続けている。
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旧上関番所 Kyuu-kaminoseki-bansho Kaminoseki Guard Station

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 山口県上関町長島に所在する「旧上関番所(きゅうかみのせきばんしょ)」は、江戸時代に藩の出先機関として、港の警備や見張り、積荷の検査などを行う役人の詰め所として利用されていた。
 藩政時代初期の数少ない行政機関の遺構として大変貴重で、かつては港の中にあったものを平成八(1996)年に現在の場所に移築、復元し当初の姿に蘇らせた。
 瀬戸内海西部には船の荷を検査する番所がいくつか設置されていて、現在の山口県においても、都に近い方から「上関」「中関」「下関」と番所が設置されていた。
 上関番所は桁行11・66m、梁間3・86mの本瓦葺きの木造入母屋造りで、四面に下屋を持つ建物である。県指定の有形文化財になっている。
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2007/11/29


佐土原人形 Sadowara-ningyou 

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 佐土原人形(さどわら人形)は宮崎県の佐土原に古くから伝わる土人形である。
 人形作りのはじまりは慶長二(1597)年の、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した朝鮮の役の後、佐土原の高麗町に移り住んだ高麗人が作ったのがはじまりといわれている。時の藩主島津豊久がこの人形作りを奨励し、人形作りは産業として発展していった。
 佐土原人形は土の素朴さを生かした温かな彩りが特徴で人形の眼や表情には工夫を凝らし独特の表情を表現している。昔から節句人形として定評があり重宝がられてきた。種類も多く、端午の節句の鯉持、馬乗、桃の節句の内裏雛”等がある。また、江戸時代にこの地で栄えた佐土原歌舞伎を題材とした忠臣蔵、いがみの権太、静御前と狐忠信などの作品も多く作られてきた。
 明治から大正にかけて佐土原人形は全国に知れ渡るようになり、その人気は今でも高く、人形作りの技術は今日まで引き継がれている。
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2007/11/8


因州和紙 Insyuu-washi 

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 因州和紙(いんしゅうわし)は、鳥取県東部地方で生産される和紙で、製品には画仙紙、書道半紙、襖紙などがある。昭和五〇(1975)年五月、通商産業大臣(現経済産業大臣)により伝統的工芸品に指定された。
 江戸時代前期から中期にかけて、藩が公務で使う御用紙を全て藩内でまかなうことを目的に作られたのが始まりとされている。明治時代に入ると、県の指導により和紙の原料となる三椏(みつまた)栽培に力が注がれるようになり、製紙工場数は江戸時代の約五百から千三百以上に増加した。昭和時代中期になると、手漉きの画仙紙、書道半紙や工芸紙の生産が軌道に乗り、因州和紙は更なる発展を遂げた。
 製法は、とろろ葵の根から作った液を紙料液に加えて簀桁(すげた)で汲み、揺り動かしながら繊維を絡め合わせ、何度も汲み上げることによって希望の厚さを求めてゆく。この工程には高度な技術と豊富な経験が必要で、名工と呼ばれる職人の漉いた紙は、百枚が百枚とも同じ重さで、厚さにも偏りがないという。
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弓浜絣 Yumihama-gasuri 

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 弓浜絣(ゆみはまがすり)は、鳥取県西部の弓ヶ浜地方に伝わる綿織物で、主な製品に着物地、座布団、のれん、袋物などがある。昭和五〇(1975)年九月、通商産業大臣(現経済産業大臣)より伝統的工芸品の指定を受けた。
 弓ヶ浜半島で弓浜絣の原料となる綿花の栽培が始められたのは江戸時代前期。この半島は「浜の目」と呼ばれ、そこで産出する綿は自家用衣料として綿布に織られていた。その後、藍玉問屋が設けられたことをきっかけに、江戸時代後期には藍の栽培が進められ、米子や弓ヶ浜あたりで「浜の目絣」「浜絣」と呼ぶ絵絣が、農家の婦女子の手によって織られるようになった。明治時代中期に全盛を迎えるが、洋式紡織業の発達に押され衰退。現在は少数の伝統工芸士らによって技術・技法が継承されており、民芸的なあたたかい味わいのある綿織物として異彩を放っている。
 弓浜絣は長年の使用にも耐え、吸湿・保温性に富み、日本の気候風土によく合う。パターン化された柄は線の表情が豊かで、情緒がある。
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