NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/7


岩船寺 三重塔 Gansen-ji Sanjuu-no-tou 

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 アジサイの名所として知られる岩船寺(がんせんじ)は、京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里にある。天平元(729)年、聖武天皇の勅願により行基(ぎょうき)が建立したと伝わる。
 その後、大同元(806)年に空海の甥・智泉(ちせん)が、密教儀式の道場として報恩院を建立。弘仁四(813)年には嵯峨天皇の皇后が、皇子(後の仁明天皇)誕生を感謝して堂塔伽藍を整え、岩船寺と称するようになった。
 最盛期にはかなりの規模を誇る寺院であったが、承久の変により大半が焼失。現在は本堂と三重の塔を残すのみである。
 山門のほぼ正面奥に三重塔がそびえている。塔は室町時代の嘉吉二(1442)年の建立で、高さ20・5m。本瓦葺で、国の重要文化財に指定されている。初層の内部には来迎柱が立てられ、本尊を安置する須弥壇(しゅみだん)と来迎壁が設けられている。塔の隅垂木(すみたるき)を支える木彫りの天邪鬼(あまのじゃく)がかわいらしい。
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2007/10/23


神田神社 Kanda-jinjya 

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 神田神社(かんだじんじゃ)は、東京都千代田区外神田にある神社である。祭神は大己貴命、少彦名命、平将門命。別名・神田明神とも呼ばれている。
 天平二(730)年、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した氏族が、大己貴命を祀ったのに始まる。
 承平五(935)年に敗死した平将門の首が京から持ち去られてこの近くに葬られ、首塚として東国の平氏武将の崇敬を受けた。
 嘉元年間(1303~1306)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、後に神田神社の祭神とされた。
 江戸時代、江戸城増築に伴って現在地に遷座し、江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇された。
 神田神社は、東京の中心である神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地など108町会の総氏神として、今も篤く慕われている神社である。
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2007/10/15


山田薬師 Yamada-yakushi 

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 奈良時代の僧・行基によって開かれたとされ、新四国曼陀羅霊場・第五三番札所でもある善福寺(ぜんぷくじ)。そこには日本三大薬師のひとつ「山田薬師(やまだやくし)」がある。
 天平年間(729~749)、宇和に天然痘が流行し、多くの死者が出た。困った群主が神に祈りをささげると、行基にすがるようにと告げられ、群主は行基に仏像の彫刻を依頼した。彫り上げられた薬師如来像を山田に安置すると、猛威を振るっていた天然痘はぴたりと止んだという伝説が残る。
 行基は後に朝廷より菩薩の称号が与えられ、行基菩薩と言われるようになった。安置されている薬師如来像は行基菩薩作とされている。
 また、昭和三八年の豪雨で本堂脇の岩山が崩れ落ちた際、本堂は岩の下敷きになったが、像はお堂の外に飛び出し傷一つなく無事だったという話も残る。巨大な岩は今も本堂のすぐ傍にある。
 四月八日の「花祭りの日」には屋根を花で飾った花御堂が作られ、家内安全・無病息災を祈願する人たちで賑わう。
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2007/10/2


行基 Gyouki Gyoki

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 行基(ぎょうき)は奈良時代の僧。古代民間仏教のカリスマで、その偉業により行基菩薩と尊称された。
 天智天皇七(668)年、河内国(現・大阪府)に誕生。法興寺の道昭を師として、一五歳で出家。仏教教理の他に、土木技術を学んだ。
 「教団は王権から独立すべきである」という三階教の教えを根本思想に、伝道と社会事業を融合させ、民衆を煽動した。畿内を中心に諸国を巡り、造寺、墾田開発、橋梁架設などを押し進めた。
 驚異的な指導力が朝廷に危惧され、僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進役を買って出ると、逆に朝廷より大僧正位を授けられた。
 大仏造営中の天平二一(749)年、奈良・菅原寺で八一歳で入滅。『日本霊異記』『本朝法華験記』『日本往生極楽記』に数々の伝説が残る。行基の軌跡を記した「行基図」が、日本地図の原型という説もある。
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2007/9/21


石山寺 多宝塔(国宝) Ishiyama-dera Tahou-tou Tahoto Pagoda at Ishiyamadera Temple (National Treasure)

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 石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗別格本山である。本尊は如意輪観音。西国三十三箇所第一三番、江州三十三観音第一番、近江三十三観音第三番札所とされる。
 天平一九(747)年、聖武天皇の勅で建立されたと伝えられる、京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ日本でも有数の観音霊場で、開基は良弁(ろうべん)。
 多宝塔(たほうとう)は、建久五(1194)年の建立で、年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔とされる。
 塔は、高さ17・2mで桧皮葺、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束となっている。
 内部には快慶作の大日如来像を安置しており、日本三名塔の一つとされ、国宝に指定されている。
 石山寺の多宝塔は、屋根の描く曲線美と調和して均整美と安定感を併せ持つ古代建築の傑作である。
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2007/8/31


興福寺 五重塔(国宝) Koufuku-ji Gojuu-no-tou 

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 興福寺(こうふくじ)は、法相宗の大本山として知られる。和銅三(710)年の春三月、平城京・左京三条七坊の地に造営された。
 興福寺には国宝に指定されている五重塔がある。天平二(730)年に、興福寺の創建者である藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘、光明皇后の発願で創建された。
 創建当初は高さ四五メートルで、当時の日本では一番高い塔だった。現在は高さは約五〇メートルで、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で二番目に高い塔である。
 火災などにより、この塔は応永三三(1426)年に再建されたもので、現在第六代目となる。
 五重塔各層には水晶の小塔などが安置されていたが、現在は薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されている。

 

 
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2007/8/2


飯豊神社 Iitoyo-jinja Iitoyo Shrine

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 宮城県加美町にある飯豊神社(いいとよじんや)は、かなりの歴史と由緒を持つ神社である。
 その興りは今から千三百年前の慶雲二(705)年、巨勢麿(こせまろ)により勧請、保食神(うけもちのかみ)を祀られたと伝えられており、延喜式内社として大石をご神体とした。
 その後の天平九(737)年に按察使(あぜち)兼鎮守府将軍であった大野東人により社殿が造営される。
 その後、栄枯盛衰はあったものの鎌倉時代の正安年間(1299~1302)に小野田朝日城主であった内海左京大夫長重が社殿を再建し篤く尊崇されることとなる。
 境内には坂上田村麻呂が植えたとも、源頼朝が植えたとも伝えられる周囲約6mにもなる老杉がご神木として祀られており、また、すぐ側には安産の神として崇拝される夫婦大石がある。
 足元に鳴瀬川を見下ろし、天気がよければ遠く栗駒山まで見渡せる景勝と共に、この神社は悠久の時を刻み続けている。
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2007/5/14


陸奥国分寺 Mutsu-kokubun-ji 

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 陸奥国分寺は天平一三(741)年、聖武天皇の詔(みことのり)によって、国家鎮護と人々の無病息災を願い、全国に建てられた国分寺の一つで、国分寺では最北に位置する。古来よりこの辺りは、宮城野と呼ばれていて、古今集に「宮城野の
 木荒の小萩 露をおもみ 風をまつごと 君をこそ待て」と詠まれた様に、宮城野萩の名でも知られている。
 現在、周辺は史跡公園になっており、約3万坪の境内には陸奥国分寺跡をはじめ、伊達政宗が建立した薬師堂、仁王門などがある。そして心字ケ池畔には、松尾芭蕉の詠んだ「あやめ草
 足に結ん草
 鞋の緒」の句碑や大淀三千風の句碑がある他、江戸時代の力士で、横綱の谷風ゆかりの牛石、谷風誉れの足型など、句碑や石仏が多数点在している。天平の古から江戸までの、歴史を感じながら散歩を楽しめる場所である。
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