NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/12/2


大池寺 開山臥龍の松 Daichi-ji Kaizan-garyu-no-matsu 

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 大池寺・開山臥龍の松(だいちじ・かいざんがりゅうのまつ)は、滋賀県甲賀市水口町にある臨済宗妙心寺派寺院、大池寺の境内にあるクロマツである。
 その樹齢は三百五十年ともいわれている古木であり、同寺の前庭にあたる庫裡前の庭園に、堂々たる木容を呈している。
 太い幹はおよそ1.8mほどの高さのところで折れるように曲り、そこから枝が地上を這うように伸びており、その姿から龍が臥せた状態をあらわす臥龍の名がつけられたのだという。
 同寺は一時荒廃したものの、寛文年間(1661~1673)に再興されており、松はこの頃に植えられたものだとされている。
 太い幹をくねらせ、まさに龍が横たわっているがごとくの枝ぶりから、同寺の名所である蓬莱庭園とともに広く知られる名木となっている。
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2008/10/29


大池寺 蓬莱庭園 Daichi-ji Horai-teien 

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 滋賀県甲賀市水口町にある臨済宗寺院、大池寺(だいちじ)。
 今からおよそ千二百年前に行基によって建立され、もとは天台宗の寺であったが、鎌倉時代に臨済宗に改宗して今に至る。その境内にあるのが、蓬莱庭園(ほうらいていえん)である。
 江戸初期の寛永年間(1625~1645)に、作庭家であり茶人でもあった近江小室藩藩主・小堀遠州により作庭されたと伝えられている。
 広い範囲に植えられたサツキを刈り込んで形を与えた観賞式枯山水庭園で、手前の書院から見ると、まるで大海の波に揺られる宝船のようである。宝船にはきっちりと七宝と七福神も表現されている。
 整然と刈り込まれたサツキは、春には紅白の花を咲かせ、夏には目にもまぶしい新緑となる。秋には後ろにある紅葉とのコントラストが見事で、冬には白い薄化粧が施されるなど、四季折々の風情に彩られる。
 他にも蓬莱山の石組みや水琴窟なども設けられており、ゆったりとした時間の流れをすごせるだろう。
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2008/9/26


等持院 Touji-in 

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 京都市北区の臨済宗天龍寺派の禅寺、等持院(とうじいん)は足利家の菩提寺として知られている。
 暦応四(1341)年、足利家と縁のあった夢窓疎石(むそうそせき)を開山として足利尊氏によって等持寺が創建された。尊氏の死後、寺は菩提所となり、名前を等持院に改められた。
 寺に入るとまず目に入るのが、禅宗の祖師である達磨大師の大きな襖絵である。
 開祖の疎石は多くの庭園を設計したことでも知られており、等持院の東庭も疎石作庭とされている。室町時代の回遊式の庭園は、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。紅葉に囲まれた庭園の眺めはまた格別である。
 霊光殿と呼ばれる納骨堂には、尊氏が信仰した弘法大師作の地蔵尊像を中央に、達磨大師像、疎石の像が祀られている。そしてさらに両側に足利家歴代の将軍達の木像がずらりと安置されており、その様子は圧巻である。
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2008/9/12


相国寺 Shoukoku-ji 

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 相国寺(しょうこくじ)は、金閣寺や銀閣寺をはじめとして、約一〇〇の末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。
 室町幕府三代将軍の足利義満が、後小松天皇の勅命をうけて、明徳三(1392)年に完成した広大な寺院で、夢窓疎石(むそうそせき)を開祖として建立された。約一〇年をかけて建立されたが、応仁の乱の戦火により焼失してしまう。度重なる災難にも関わらず、幾度も再建され多くの高僧を輩出した。
 わが国最古の法堂は、入母屋造りの唐様建築で、本尊の釈迦如来は運慶の作といわれている。仏殿や金堂は存在せず、この法堂が仏殿を兼ねている。
 天井に描かれた「蟠龍図」は狩野永徳(かのうえいとく)の嫡男である狩野光信(かのうみつのぶ)の作である。見る角度により、龍の顔や眼が動くように見えるのが特徴で、この絵の下で手をたたくと、堂内にその音が響き渡り、その音がまるで龍が泣いているかのような声に聞こえたことから、通称「泣き龍」とも呼ばれている。
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2008/9/11


佛山寺 Bussan-ji 

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 大分県由布院の佛山寺(ぶっさんじ)は、明治の廃仏毀釈が行われるまでは宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ)またの名を六所宮(ろくしょぐう)と一体になって栄えた古刹である。
 本尊は由布岳の観音菩薩。かつて湖であった湯布院を盆地に変えたと伝えられる宇奈岐日女と習合していた。
 寺伝によると康保年間(964〜968年)、聖空上人の開山と云われ、当時の堂宇は由布岳の中腹にあり天台宗であった。その後、江戸時代に臨済宗となって現在の地に移転した。
 全盛時には10ヶ所の末寺を有した湯布院を代表する中心的寺院で、今も境内には青面金剛塔や金光明王塔が竹林や大杉の合間に建ち、山門、本堂、庫裡がすべて落ち着いた雰囲気を保っている。平成六(1994)年の火災で本堂を焼失したが、再建され現在に至る。
 また、500メートル程離れた金鱗湖に浮かぶ鳥居はこの佛山寺にあったもので、廃仏毀釈に伴い天祖神社付近の湖面に移されたものである。
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2008/8/28


摠見寺 三重塔 Souken-ji Sanjuu-no-tou 

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 摠見寺(そうけんじ)は、滋賀県蒲生郡安土町下豊浦にある臨済宗妙心寺派の寺である。本尊は、織田信長。江州三十三観音霊場第25番札所とされる。
 天正年間(1573~1591)に、安土城築城に伴って織田信長により城郭内に建立された。以後、江戸時代には織田家の菩提寺として栄えた。摠見寺は別称で、正式には総見寺と言う。
 三重塔は、享徳三(1454)年に建立されたもので、摠見寺創建時に甲賀より移築された。本瓦葺で、高さは19.7mあり、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは中央間のみ蟇股、脇間は間斗束となっており、国の重要文化財に指定されている。安土城炎上、江戸末期の火災からも難を逃れた貴重な建築物である。
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2008/8/4


刈谷市 密蔵院 Kariya-shi Mitsuzou-in 

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 刈谷市(かりやし)の密蔵院(みつぞういん)は、愛知県刈谷市一里山町南弘法にある臨済宗永源寺派の寺である。本尊は流涕弘法大師、弥勒菩薩。三河新四国霊場第3番札所、参河國准四國八十八ヶ所霊場第66番札所であり、成務天皇四一(171)年、創建されたと伝えられる。
 本尊の流涕弘法大師像は、大師自ら刻んだ三体の像の一体で、弘法大師との分かれに涙を流したので「流涕(りゅうてい)弘法大師」と呼ばれている。他の二体は、それぞれ遍照院(へんじょういん)、西福寺(さいふくじ)にあり、密蔵院は三河三弘法第3番札所とされている。
 山門前には三弘法の石碑があり、境内には石仏が並ぶ。その中には観音菩薩が馬に跨って走るという姿の馬頭観音像が存在している。
 刈谷市の密蔵院は、弘法大師ゆかりの古刹である。
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2008/7/1


海岸寺 Kaiganji 

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 海岸寺(かいがんじ)は、長野県との県境に位置する山梨県北杜市にある臨済宗の名刹である。
 養老元(717)年、行基が現在の地である津金山の南斜面に庵を構えたのが始まりとされる。
 海抜約1000mに位置し、天候によっては眼下に雲海を見ることができることから海岸寺という名が付いたといわれている。
 寛治年間(1087~1094)には新羅三郎義光が、京より玄観律師を同寺に迎え、国家鎮護の大道場として隆盛するも、天正一〇(1582)年の織田信長による甲斐侵攻の際、兵火によって堂宇の多くを焼失した。
 現在の堂宇の多くは中興の祖である即應宗智和尚により、寛文六(1666)年に再建されたものである。
 境内には江戸時代の石仏師が一〇年以上の歳月をかけて彫り上げた百体あまりの石仏があり、これを目当てに訪れる人も多い。
 四季折々の風景と共に、様々な表情を見せる石仏をゆっくりと巡ってみるのも良いかもしれない。
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