NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/19


龍岡城 Tatsuoka-jou 

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 龍岡城(たつおかじょう)は、長野県佐久市にある城跡である。
 日本に二つある星形の西洋式城郭の一つで、もう一方の函館の五稜郭と同じ形をしていることから「龍岡五稜郭」の別名も持つ。
 三河奥殿藩の藩主だった松平乗謨(まつだいらのりたか)により、洋式築城の許認可を幕府に届け出て、慶応二(1867)年に築城された。
 その後も五稜郭を取り囲むように外堀が掘られていったが、完成を見ずに明治維新を迎えることとなり、堀もその途中で作業が中断されて現在のように途中までのものとなっている。
 実戦において極めて優れた城とされるフランスのヴォーバン城をモデルとしているものの、壁が低くて水堀も狭く、砲台も西方に一基しか無いため、龍岡城はあまり実戦には向かないものと見られている。
 現在では跡地に小学校が建ち、稜保式の石垣や水堀、御台所が遺構として残っている。
 幕末の動乱の中で築かれた城は、今は小学生達の元気のよい掛け声と共に余生を送っている。
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2008/6/30


津城(安濃津城) Tsu-jou(Anotsu-jou) 

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 津城(つじょう)は、三重県津市丸の内にあった城である。別名・安濃津城(あのつじょう)とも呼ばれる。
 永禄年間(1558~1569)に、長野氏の一族・細野藤敦(ほそのふじあつ)が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたのが、始まりとされる。
 北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた要害である。
 以後、何人か城主を替え、慶長一三(1608)年、藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城した。高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備し、明治維新まで藤堂氏の居城となった。
 現在、城跡はお城児童公園となっており、北側の本丸石垣には、築城時の石垣に修築時の石垣が継ぎ足された様子が伺える。
 津城は、戦国時代を生き抜いた歴戦の城である。
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松阪城 Matsuzaka-jou 

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 松阪城(まつざかじょう)は、三重県松阪市殿町にあった城である。かつては松坂城(まつさかじょう)と言われていた。日本100名城に選定されている。
 天正一六(1588)年、戦国の名将・知将と謳われた蒲生氏郷(がもううじさと)により、伊勢支配の拠点として築かれた。
 四五百森(よいほのもり)に、三層の天守閣を中心として金の間櫓等11棟の建物を建造し、小牧・長久手の戦後、松ヶ島城と大阪城の名をとり、松阪城と名付けた。
 以後、何人かの城主を迎え、元和五(1619)年、紀州徳川藩の所有となり、南伊勢国内を統括する城として代々城代が置かれた。
 現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている。周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館などが存在する。
 松阪城は、明治維新まで使用された、長い歴史を誇る城である。
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2008/6/25


小倉山城 Ogurayama-jou 

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 小倉山城(おぐらやまじょう)は、岐阜県美濃市泉町にあった城である。
 慶長一〇(1605)年、飛騨国高山藩主であった金森長近(かなもりながちか)は、養子の可重に高山城を譲り隠居し、隠居城として小倉山城を築城した。
 二年後、長近が没すると、可重は長近の実子長光に2万石を分地したが、慶長一六(1611)年、金森氏は跡継ぎが無く没したため取りつぶしとなり、小倉山城は廃城となった。
 元和元(1615)年、尾張徳川家の所領となり、廃城となっていた小倉山城に代官所が置かれ、以後明治維新まで続いた。
 現在、小倉山は小倉公園として整備されている。遺構としては石垣と土塁が現存しており、本丸に模擬櫓、山頂に三階建ての展望台と忠魂碑が建造されている。
 小倉山城は、城として使用されたのは短期間であったが、その後代官所として利用され、人々に親しまれた城である。
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2008/6/18


奈良県 護国神社 Naraken Gokokujinja 

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 奈良県奈良市にある護国神社(ごこくじんじゃ)は、高円山(たかまどやま)の麓に鎮座し、一万五千坪の緑豊かな境内は、高円の杜と呼ばれている。
 この神社は、大東亜戦争が始まった昭和一七(1942)年、全県民挙げての奉仕により大和盆地が一望できるこの地に創建された。
 明治維新から大東亜戦争まで国難に殉じた、奈良県出身の陸海軍戦没者など、およそ二万九千柱の英霊が祀られている。
 境内では、三月末から四月始めにかけて「椿祭り」がおこなわれ、多品種植樹されている椿がたくさん咲き乱れる。
 また、毎年大晦日の二三時三〇分から「御火焚祭(おひたきさい)」がおこなわれる。古式により火鑚杵(ひきりきね)と火鑚臼(ひきりうす)を用いておこした御神明(みあかり)を神前に奉納し、一年間の神仏のご加護をいただいた古いお札やお守りを炎納し、正月三日間火を絶やさず大とんどをおこなう。
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2008/5/22


高取城(芙蓉城) Takatori-jou(Fuyou-jou) 

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 奈良県の高取城(たかとりじょう)は、元弘二(1332)年と歴史が古く越智邦澄が高取山に築城させたものが始まりとされる。
 「巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」と謳われている様に、城壁の白亜の見事さから別名「芙蓉城(ふようじょう)」ともいわれた。
 豊臣秀次が大和国の郡山城に入ったのち、高取城は秀長の重臣本多利久に与えられた。利久によって近世城郭としての高取城が築かれていき、難攻不落といわれる山城の典型となっていった。「備中松山城」「岩村城」と共に日本三大山城の一つに数えられる。元和元(1615)年の一国一城令の際も、重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。
 江戸時代に入ると、寛永一四(1657)年に三代続いた本多氏が断絶し、寛永一七(1640)年に植村氏が入封、そして明治維新を迎えた。
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2008/5/1


米沢城址(松が岬城址) Yonezawa-joushi(Matsugazaki-joushi) 

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 米沢城址(よねざわじょうし)は、山形県米沢市丸の内にある城跡である。別名・松が岬城址(まつがざきじょうし)とも呼ばれる。
 暦仁元(1238)年、長井庄の地頭・大江時広(おおえときひろ)が創築したと伝えられる。後に伊達宗遠(だてむねとお)、慶長三(1598)年に、直江兼続(なおえかねつぐ)が入城。その後、景勝自身が入城して米沢藩・上杉氏の居城となり、明治維新を迎えた。
 現在は公園として整備されており、堀と石垣が残っているだけだが、花見の名所で春には200本の桜が咲く。
 園内には藩祖・上杉謙信(うえすぎけんしん)を祀る上杉神社があり、上杉家伝来の宝物を多数収蔵した稽照殿(けいしょうでん)が隣接している。また、濠外東方に松岬神社、同南方に上杉記念館・市立児童会館などが建っている。
 米沢城址は、上杉家ゆかりの歴史ある城跡である。
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2007/10/3


山口 松陰神社 Yamaguchi Shouin-jinjya Shoin Shrine in Yamaguchi

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 松陰神社(しょういんじんじゃ)は、明治二三(1890)年に創建された、明治維新に尽力した、吉田松陰を祀る神社。
 吉田松陰は、29歳で刑死するまで、門下の育成に力を注いだ。その中から、幕末から維新にかけて活躍する、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、山県有朋などが輩出されている。
 初めは、松陰の兄の家に祀られていたが、昭和三〇(1955)年に現在地に移転し、新たに社殿が造営された。
 本殿の北隣には門下生を祀る松門神社が立ち、境内には松陰ゆかりの史跡や展示館などが点在し、高杉晋作や伊藤博文らが学んだ松下村塾や、松陰が謹慎した際過ごした、幽囚旧宅が保存公開されている。
 萩市で学問の神として最も尊敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れる。
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