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2007/10/16


ケベス祭 Kebesu-matsuri Kebesu Festival

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 ケベス祭は、大分県国東市国見町の岩倉社で、毎年10月14日の宵に行われる奇祭。
起源や由来は一切不明で、「ケベス」は「蹴火子(けべす)」が訛って転じたものだとされるが、詳しいことは謎のままの火祭りである。
 祭り当日の夜、奇怪な面を着けた「ケベス」がサマスタと呼ばれる棒を扇子で叩きながら境内を1周すると、猛然と燃え盛る護摩(ごま)焚きの火に向かって走り出す。それを白装束の「トウバ」が阻止しようとし、ケベスと火をめぐって攻防を繰り返す。そして、トウバが火のついたシダを持ち、境内を走り回り、見物客を追い回す。この火の粉を浴びると、その年は無病息災で暮らせるという。
 ケベス祭は、県指定無形民俗文化財であり、日本屈指の奇祭として注目されているという。
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2007/9/14


【環】 Kan The Character for Cycle, Ring, Surround

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 環境の環。その形がなかなか深い意味を語っています。上の部分は目です。その下に衣と○があります。○は玉。この三つの要素を含む字体のほかに、さらに強調のために玉偏(たまへん)をつける字体もあります。玉偏自体は三つの玉を貫く紐の形です。
 この字は実は古代の葬儀、死者の復活思想、信仰と関係があります。上の目は開いているので、死者の復活を願う象徴です。古代には死者に玉の賜物を副葬品として添える習慣があったのです。この字はその玉を衣服の襟元に置いた形です。玉を死者の口に含ませることもあり、それは「含」という字になりました。
 白川静先生の著作、『孔子伝』などにもしばしば出てくる荘子の『荘子(南華真経)』に、こういう様々な古代の習慣がよく取り上げられています。もちろんむしろ否定的に。例えば、『荘子(南華真経)』外物篇に道徳的よりどころであるはずの『詩経』と『禮経』の墓と副葬品などの詳しい記述を頼りに、墓を盗掘したり、死者に添えた玉を奪おうとする儒者のことが風刺的に描かれています。
 また白川先生が、日本の代表的な哲学者である西田幾多郎には、漢字の世界をある意味で哲学化した荘子の影響がかなり見られると指摘されているように、そういう背景から見ると漢字には古今を結ぶ一面があります。
 人類の生死に関わる環境。健全な環境の保持を考えるにふさわしい字ではないしょうか。
 
■ 環・金文(きんぶん)
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2007/7/3


刈和野の大綱引き Kariwano-no-ootsuna-hiki 

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 毎年旧暦一月一五日、新暦の二月一〇日の夜、刈和野の大町通りは、引き手のかけ声と観客の歓声とで興奮のるつぼと化す。「刈和野の大綱引き」である。
 上町・下町の2町に分かれた数千人の「刈和野衆」が100mを越す大綱に取り付き、建元(たてもと)と呼ばれる両町のリーダーの合図で一斉に大綱を引き始める。「ジョーヤサノー、ジョーヤサノー」という威勢のいい掛け声に合わせ、双方が波打つように綱を引き合う。
 大綱は上町側を雄綱、下町側を雌綱と呼び、それぞれ64m、50mの長さ。太さはそれぞれ80cm前後もあり、重量はそれぞれ約10トンにもなるという。
 祭りが始められた当初は、町の市場の開設権をめぐる勝負であったとされるが、現在では観光の意味合いが強くなって、上町が勝つと米の値段が上がり、下町が勝つと豊作になると言われるようになった。
 五百年以上の伝統を誇ると言われるこの大綱引きは、刈和野の伝統行事として国の重要無形民俗文化財の指定を受けている。
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2007/4/16


広島 西郷寺 Hiroshima Saigou-ji Saigoji Temple

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 室町時代の文和二(1353)年に遊行六代一鎮上人が建てた時宗の古刹。広島県尾道市に所在する。
 階段を登ると山門がある。板蟇股(かえるまた)や破風などに室町時代の様式が見られる、重厚な意匠だ。
 足利尊氏が文和二(1353)年に建立したとされる、古風で威風堂々とした本堂は国の重要文化財。舟肘木と寄棟造の端正な姿が美しい。内部は方三間の内陣の周囲を外陣がめぐる形式で、浄土教の特徴をよく表しており、時宗本堂最古の遺構として貴重である。この本堂は、堂内にある「鳴き龍天井」でも有名。手を叩くと天井に龍の鳴き声のような音が響くことからこう名づけられた。
 本尊の阿弥陀如来立像は足利尊氏の守本尊として持ち運びやすくするために、五体分離できる仏像となっている珍しいものである。
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2007/3/19


鷲城跡 Washi-jyou-ato Washi Castle Ruins

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 築城年代は不明だが、南北朝時代の康歴二(1380)年以降、小山義政の乱当時の、小山氏の戦乱の拠点として整備されたとされる。
小山氏は、鎌倉時代に下野国守護職に代々任じられた武家の名門。南北朝時代当時、小山義政は、宇都宮基綱と下野守護職とその所領をめぐって対立関係にあった。裳原の合戦で基綱を打ち破るも、鎌倉公方足利氏満が兵を集めて鷲城に攻め入ったため、義政は降伏してしまったという。
しかし、義政は祇園城を拠点に長福城、宿城、岩壷城などを支城にして、再び反旗を翻した。これに対し、足利氏満はさらに兵力を増員し、再び小山へ攻め込み、義政は遂に降伏。鷲城は兵火によりその歴史の幕を閉じた。
現在、鷲城跡には高さ2メートルの土塁や櫓台、虎口などの遺構が残され、戦乱の舞台となった歴史的価値のある史跡として存在している。
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2007/3/13


義経隠れ塔 Yoshitsune-rkakure-tou Yoshitsune Kakure-to Hall

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 義経隠れ塔(よしつねかくれとう)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある金峰神社(きんぷじんじゃ)の社域にある、古い建築物である。
 金峰神社脇の小径を下った、案内がなければ気付かないような場所に建っており、宝形造・檜皮葺きの簡素な塔である。
 追っ手に囲まれた源義経が弁慶や佐藤忠信らと隠れ、屋根を蹴破って逃げたといわれることから「蹴抜の塔」とも呼ばれる。
 ここは大峯修行場の一つで、この塔に入って扉を閉じると中は真っ暗になる。修行をする行者は、真っ暗な塔内で俗気を抜き、
 「吉野なる 深山の奥の隠れ塔 本来空の すみかなりけり」
 と歌いながら、塔内をめぐる。
 義経隠れ塔は、伝説と歴史に彩られた、静かな場所である。
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2007/2/8


今市石畳 Imaichi-ishidatami Imaichi Stone-Paved Road

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 今市石畳(いまいちいしだたみ)は、その昔、参勤交代道路であった肥後街道の一部。昭和四十七(1972)年に県史跡に指定された、貴重な交通遺跡である。大分県の野津原町に位置する。
 野津原町は、慶長七(1601)年から肥後領になり、現今市市や野津原地区は、幕末まで肥後藩の宿場町となっていた。街道にはお茶屋が軒を連ね、物資が行き交う拠点として栄えたという。その当時の面影を残すのが今市石畳。幅6メートルの道の中央に幅2メートル、長さ660メートルにわたり切石が整然と並べられ、往時の大名行列の姿を彷彿とさせる。
 今市石畳は、毎年8月に行われる「篭かきレース」でも有名だ。今市が昔宿場町だったことからその時代を再現し、趣向を凝らした衣装を身にまとい、篭を担いで駆けめぐるものである。
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2007/1/25


閑谷学校 Shizutani-gakkou Shizutani Gakko

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 閑谷学校(しずたにがっこう)は、備前藩主池田光政の命により、約330年前に作られた日本最古の庶民の学校。岡山県備前市閑谷に所在する。創立以来、儒教精神に基く教育がなされ、他藩からの入学者、学者、文人の来遊も相次いだとか。明治以降は旧制中学、新制高校へと変遷、現在は県青少年教育センターとなっており、三百余年の間、優秀な人材を送り出している。
この建造物の最大の特色は、屋根瓦に備前焼を用いていること。そのためにわざわざ近くに窯を築き、伊部から陶工を呼んで焼いたという。その結果、いかにも儒学の殿堂にふさわしい雰囲気を醸し出している。学校の周囲をぐるりとめぐるかまぼこ型の石塀も美しい。中国の唐様を真似たもので、石積みが精密を極め全体によく調和している。
閑谷学校は、講堂をはじめ石塀や敷地内のほとんどの建物が国宝・重要文化財に指定されているという。
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