NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/12


小幡焼 Obata-yaki 

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 小幡焼(おばたやき)は、上州の小京都、群馬県甘楽郡小幡で作られている焼物である。
 いつごろから始まったのかは定かではないが、江戸時代には粉引きを中心に作陶されていたと見られている。織田信長の次男である織田信雄が築庭し、国の名勝にも指定されている楽山園の近くに登り窯が築かれたことから楽山園焼とも称されている。
 粉引きはもとより、単純な文様のみの壺や茶碗、鉢、湯のみなど素朴な中にも味わいのあるものを作陶している。
 また、桃花紅と呼ばれる、清朝時代に作られたといわれる陶器の再現にも成功したことでも知られている。焼成が難しく、再現は至難とされていたが、その淡い桃色や緑がかった桃色の透き通るような美しい表面は、小幡焼の元で今日に復活を遂げたのである。
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2008/8/28


摠見寺 三重塔 Souken-ji Sanjuu-no-tou 

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 摠見寺(そうけんじ)は、滋賀県蒲生郡安土町下豊浦にある臨済宗妙心寺派の寺である。本尊は、織田信長。江州三十三観音霊場第25番札所とされる。
 天正年間(1573~1591)に、安土城築城に伴って織田信長により城郭内に建立された。以後、江戸時代には織田家の菩提寺として栄えた。摠見寺は別称で、正式には総見寺と言う。
 三重塔は、享徳三(1454)年に建立されたもので、摠見寺創建時に甲賀より移築された。本瓦葺で、高さは19.7mあり、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは中央間のみ蟇股、脇間は間斗束となっており、国の重要文化財に指定されている。安土城炎上、江戸末期の火災からも難を逃れた貴重な建築物である。
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2008/7/25


愛知 如庵(国宝) Aichi Joan(Kokuhou) 

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 如庵(じょあん)は、愛知県犬山市にある庭園「有楽苑」内にある茶室である。
 元和四(1618)年に織田信長の実弟である織田有楽斎により、京都市にある建仁寺の塔頭(たっちゅう)である正伝院が再興された際、建造された茶室だ。
 明治四一(1908)年に東京の三井本邸に移築されたが、その後、一旦神奈川に移ってから昭和四七(1972)年に現在地に移築され、今に至っている。
 京都府にある妙喜庵・待庵(たいあん)と大徳寺龍光院・蜜庵(みったん)とならび「三名席」とも称され、国宝指定されている三席の茶室の一つとなっている。
 柿(こけら)葺き入母屋風の妻を正面に向けた二畳半台目向切の茶室で、内部には足元に三角形の板畳である「鱗板」を敷き、有楽窓と呼ばれる窓や斜めの壁と中柱の構えなど、随所に様々な工夫が凝らされており、千利休の独創性あふれる待庵ともまた違った、端正な佇まいを見せている。
 毎年の三月と十一月には一般公開されており、今も多くの人が訪れている。
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2008/7/24


城下町 Jouka-machi Jouka-machi (Castle Town)

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 城下町(じょうかまち)とは、主に領主の居城を中心として成立した都市のことである。
 その成立は戦国時代とされ、織田信長による兵農分離で、武士を城下に住まわせると共に市場を設けて商工業を行なわせたことによるとされる。
 城下町としての基本構造は、城の付近を通る幹線道路を付け替えて、往来が城下を通るようにさせたもので、これにより商工業が活性化し、発展を促して城下に広く人々が集い、町が形成されていくこととなる。
 都市防衛についても様々な工夫が施されている場合が多く、川の有効利用や門の設置、道路わきの家屋を隙間なく建てて城を見えなくするなど、都市そのものが巨大な防衛能力を持つものもあった。
 居住地の区画割りも城を中心に近いほど身分の高い侍が住み、一般市民や寺社などは城から離れるにしたがって割り当てられた。
 現在においても城下町の風情を残す街は少なからずあり、それ以外でも番町や大手町、呉服町などの町名に往時を偲ぶことができるだろう。
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2008/7/1


海岸寺 Kaiganji 

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 海岸寺(かいがんじ)は、長野県との県境に位置する山梨県北杜市にある臨済宗の名刹である。
 養老元(717)年、行基が現在の地である津金山の南斜面に庵を構えたのが始まりとされる。
 海抜約1000mに位置し、天候によっては眼下に雲海を見ることができることから海岸寺という名が付いたといわれている。
 寛治年間(1087~1094)には新羅三郎義光が、京より玄観律師を同寺に迎え、国家鎮護の大道場として隆盛するも、天正一〇(1582)年の織田信長による甲斐侵攻の際、兵火によって堂宇の多くを焼失した。
 現在の堂宇の多くは中興の祖である即應宗智和尚により、寛文六(1666)年に再建されたものである。
 境内には江戸時代の石仏師が一〇年以上の歳月をかけて彫り上げた百体あまりの石仏があり、これを目当てに訪れる人も多い。
 四季折々の風景と共に、様々な表情を見せる石仏をゆっくりと巡ってみるのも良いかもしれない。
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2008/6/30


小牧山城 Komakiyama-jou 

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 小牧山城(こまきやまじょう)は、愛知県小牧市の市街地西に位置する、標高約八六メートルの小牧山にある。
 桶狭間の合戦ののち、尾張平野の中に孤立した丘陵と、その麓を利用し、永禄六(1563)年に織田信長が築いた平山城である。
 信長の死後、天正一二(1584)年「小牧・長久手の戦い」において、豊臣秀吉と戦った織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍が大規模な改修を施し陣城とした。
 その後、小牧山は尾張藩によって入山が禁じられた。明治以後もこの規則は守られ、明治二二(1889)年に尾張徳川家に払い下げられた。
 昭和五(1930)年に尾張徳川家の徳川義親(とくがわよしちか)から小牧市に寄贈されて以後、自然公園として整備された。
 現在は城址公園となり、削平地や復元された空堀、土塁、旧虎口跡などがある。また山頂に展望台がわりの模擬天守が建っており、内部は歴史館となっている。
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伊勢亀山城(胡蝶城) Ise-kameyama-jou(Kochou-jou) 

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 伊勢亀山城(いせかめやまじょう)は、三重県亀山市本丸町にあった城である。
 2000m余りの白亜の土塀により、蝶の群れが舞うような姿に見えた事から別名・胡蝶城(こちょうじょう)とも呼ばれている。
 文永二(1265)年、関実忠(せきさねただ)によって若山に築城され、その後現在の位置に遷された。
 元亀四(1573)年、関盛信(せきもりのぶ)が織田信長によって追放されるまで関氏代々の居城となっていた。
 交通の要所にあったため、城主はその後本田氏、石川氏、板倉氏、松平氏、板倉氏とめまぐるしく交代し、延享元(1744)年、石川氏が入城、以降、明治維新まで城主を務めた。
 建物のほとんどは破壊され、現在は僅かに多門櫓と外堀、土塁の跡を見る事が出来る。
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2008/6/26


甲府城(舞鶴城) Koufu-jou(maitsuru-jou) 

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 甲府城(こうふじょう)は、上から眺めると鶴が羽ばたいている姿に似ているところから別名「舞鶴城(まいつるじょう)」と呼ばれていた。
 天正一〇(1582)年、戦国大名である武田氏の滅亡後、織田信長の領国となったが、本能寺の変のあと、徳川家康が支配した。
 しかし、豊臣秀吉の天下統一後、秀吉の命により甥の羽柴秀勝や部下であった加藤光泰により築城され、浅野長政・幸長父子により城は完成した。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の戦い以後、再び徳川家のものとなり、江戸中期には柳沢吉保が城主なった。
 甲府城の石垣は、約四〇〇年前ほど前、自然石を使い石を乱積みにした野面積み(のづらつみ)から始まったといわれている。
 現在は、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として開放されている。
 舞鶴城公園は、桜の名所としても知られ、一五〇本以上の桜が植えられている。城址の雰囲気のなかで、咲き誇る桜を楽しむことができる。
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