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2008/7/9


八戸 八幡駒(馬) Hachinohe Yahata-koma(uma) 

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 八戸の八幡駒(はちのへのやわたこま)は、青森県八戸市に伝わる伝統の木馬である。正式には八幡馬(やわたうま)といい、日本三大駒のひとつに数えられている。
 八戸地方は、鎌倉時代から軍用馬「南部馬」の産地であり、この地の馬は農耕馬としても庶民の暮らしを支え、古くから踊りや民話の題材にされてきた。
 約700年程前、京方面から一人の木工師が南部八戸の天狗沢に流れ着き、木工および塗り物業を営む傍ら、余暇を見つけては馬の玩具を作っていたという。
 その後、一鉋一鑿(いっぽういっさく)の木彫りの馬の玩具が、櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)の流鏑馬(やぶさめ)の儀式の際に、参詣者の土産として売られるようになった。それが、今日の八幡駒の起源とされている。
 八戸の八幡駒は、福を呼ぶ馬として結婚、新築、卒業、出産、落成などのお祝、記念品として広く親しまれている郷土民芸品である。
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2008/3/7


木ノ下駒 Kinoshita-goma Kinoshita-koma Wooden Horse Toys

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 宮城県の木ノ下駒(きのしたこま)は、青森の八幡駒・福島の三春駒と並び、日本三駒と称される馬の形をした玩具である。
 平安時代、馬は兵役や農耕には欠かせない大事な動物であった。当時、東北地方は馬の名産地でもあり、この地方の国府長官は朝廷の行事である「駒牽(こまひき)」の際には、必ず当地の馬を献上していたという。献上馬の首には、馬の形に作られた小さな木型が付けられていた。それをまねて作られたのが木ノ下駒の始まりと言われている。
 木ノ下駒は、陸奥国分寺薬師堂や白山神社の祭礼で馬の守護神・厄除けのお守りとして売られていた。その後、参拝者のおみやげとして人気を博すようになり、農閉期になると農家の貴重な副業となったという。
 木ノ下駒はすべて手造りで、その可愛らしい形からおみやげとして重宝され、全国に知れわたるようになったといわれる。
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2007/11/8


天童将棋駒 Tendou-shougigoma 

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 山形県天童市で江戸時代から受け継がれてきた伝統工芸が、天童将棋駒(てんどうしょうぎごま)である。将棋駒は殆どが天童市とその周辺の市でつくられ、全国の約九五%の生産量を占める。
 天保二(1831)年、織田藩が天童に城を移し、旧天童藩士が財政に困難を極めていたときに、家臣の内職として将棋駒づくりを奨励したのがはじまりといわれる。
 当時、武士が内職を営むことはさまざまな反対もあったが、織田藩の用人職であった吉田大八(よしだだいはち)は、将棋は兵法戦術に通じるものがあるとの考えから、駒づくりをすることも、これで遊ぶことも、武士の面目を傷つけるものではないとして、その製造法を広く紹介したといわれる。
 将棋駒にちなんだ行事も各種開かれ、武者の格好をして大きな将棋の駒を携え、自らが駒となって将棋を打つという「人間将棋」は、四月におこなわれる天童市の一大イベントとなっている。
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2007/11/5


飯野山(讃岐富士) Iinoyama(Sanukifuji) Mt. Iinoyama (Sanuki Fuji)

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 飯野山(いいのやま)は四国の讃岐平野にあり、香川県丸亀市と坂出市にまたがる円錐形の美しい山である。標高は約422メートル、別名・讃岐富士(さぬきふじ)と呼ばれている。
 飯野山はその見栄えのよさから多くの歌人が歌に詠んでいる。古くは西行法師や高浜虚子が、近年では昭和天皇が「暁に駒をとどめて見渡せば讃岐の富士に雲ぞかかれる」と詠まれ、頂上にはその歌碑が建てられている。
 山中ではフジ、ボタン、ハギの花々など四季折々の植物を楽しむことが出来る。また、山頂までの道のりには巨石や巨岩が連なる「おじょもの足跡」がある。おじょもとは昔話の大男の名で、この大男が残したものだという言い伝えがある。
 山頂からの眺めは素晴らしく、猫山、大高峰、大麻山など、讃岐平野の山々の連なり、遠くには瀬戸内海や瀬戸大橋も見ることが出来る。
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2007/10/31


葛城山 Katsurag-isan Mt. Katsuragi

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 葛城山(大和葛城山)は、奈良県御所市櫛羅と大阪府南河内郡千早赤阪村にまたがる、標高959メートルの山である。
 金剛生駒紀泉国定公園内にあり、金剛山地において、金剛山と並ぶ主峰格である。
 葛城山の祭神は一言主神(ひとことぬしのかみ)。伝説によると、役の行者が葛城山から金峰山に橋を作っていた時、この神は容貌を恥ずかしがって夜間だけ手伝ってくれたという。
 四季それぞれの自然の美しい風物と、変化に富んだ登山コースは、ハイカーや登山者に人気がある。
 春のヤマツツジ、秋のススキで知られる高原状の山上台地は、山の形状がなだらかであるために、この付近を指して葛城高原と呼ばれている。
 葛城山は、四季折々の景観も美しい行楽地である。
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2007/10/15


満濃池 Mannou-ike Manno-ike Pond

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 満濃池(まんのういけ)は香川県仲多度郡満濃町にある、日本最大の灌漑用のため池である。別名・満濃太郎とも呼ばれており、貯水量1540万トンの大きさを誇っている。
 大宝年間(701~704)、讃岐の国守であった道守朝臣(みちもりあそん)の創築と伝えられている。しかしその後池は決壊、長い年月の間放置されたままであったが、弘仁一ニ(821)年に空海がわずか三ケ月たらずで修復拡大した。その労力もむなしく、満濃池はその後も決壊を繰り返した。
 寛永ニ(1625)年に生駒讃岐守は、家臣であり土木工事の名人である西嶋八兵衛に修復を命じた。八兵衛は期待に応え、寛永八(1631)年に完成させたが、その後も大地震などで池は数回に渡り決壊、その都度、多くの人々の努力によって修復されてきた。
 現在の満濃池は昭和三四(1942)年に完成したものである。
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玉藻公園 Tamamo-kouen Tamamo Park

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 玉藻公園(たまもこうえん)は香川県高松市JR高松駅近辺の高松城、別名・玉藻城跡に昭和三〇(1955)年に作られた公園である。
 高松城は天正時代(1590年頃)豊臣秀吉の家臣である生駒親正(いこまちかまさ)によって築城され、後の江戸時代には、水戸黄門で有名な水戸光國の兄、松平頼重(まつだいらよりしげ)が藩主となり長年に渡り栄華をきわめた城である。
 玉藻城のいわれは、万葉集でも有名な歌人・柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことにちなんで、この地の海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるとされる。
 公園内では一年を通じ、春の桜見物、秋の菊花展、お茶会、植木市などのイベントが数多く開かれる。
 また、大正六(1917)年、城跡に建てられた高松市立玉藻公園披雲閣は歴史と由緒ある建物であり、現在は会議、茶会、華店などが開かる。
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栗林公園 掬月亭 Ritsurinkouen Kikugetsu-tei Kikugetsutei Tea House in Ritsurin Park

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 香川県高松市にある掬月亭(きくげつてい)は、廻遊式庭園として有名な栗林公園(りつりんこうえん)内に造られた由緒ある茶室である。
 公園は寛永二(1625)年頃に讃岐領主・生駒高俊(いこまたかとし)によって造成され、その後、江戸時代に藩主となった松平家によって完成された。
 掬月亭は江戸時代初期の頃に建てられたものであり、松平家が愛用した大茶屋である。建築様式は数寄屋風書院造りの建物で、池を中心として構成されている庭園の象徴的建物となっている。その優雅な姿は池の水面と見事なほどに融合している。また、背景に聳え立つ紫雲山(しうんざん)とも見事なコントラストを描きだし、見る者を幻想の世界へと誘う。
 明治八(1875)年に県立公園となり一般に開放され、現在では、毎月第二日曜日に掬月亭での茶会が催されている。
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