NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/9


金剛證寺 Kongoushou-ji 

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 金剛證寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市の朝熊山(あさまやま)南峰の経ヶ峯に位置する古刹で、御本尊は日本三大虚空蔵菩薩の一つ、福威智満(ふくいちまん)虚空蔵大菩薩である。
 伊勢神宮における北東の方角である鬼門を守る寺としても知られている。
 その創建は、第二九代欽明天皇の御代(509~571)、暁台(きょうたい)上人によって明星堂が開かれたのが始まりとされる。
 平安時代の天長二(825)年には弘法大師によって真言密教道場として堂宇が建立され、密教修業の大道場として隆盛を誇った。
 その後、衰退を見せるも応永年間(1248~1394)に仏地禅師により再興され、以来禅寺に改められて今に至っている。
 現在の本堂は、岡山城主であった池田輝政の寄進により、慶長一四(1609)年に再建されたもので、その一重寄棟造の堂々たる巨宇は国の重要文化財に指定されている。
 境内には約一万柱が立ち並ぶ供養卒塔婆、その卒塔婆道への入り口に立つ極楽門などがある。
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2007/10/15


山田薬師 Yamada-yakushi 

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 奈良時代の僧・行基によって開かれたとされ、新四国曼陀羅霊場・第五三番札所でもある善福寺(ぜんぷくじ)。そこには日本三大薬師のひとつ「山田薬師(やまだやくし)」がある。
 天平年間(729~749)、宇和に天然痘が流行し、多くの死者が出た。困った群主が神に祈りをささげると、行基にすがるようにと告げられ、群主は行基に仏像の彫刻を依頼した。彫り上げられた薬師如来像を山田に安置すると、猛威を振るっていた天然痘はぴたりと止んだという伝説が残る。
 行基は後に朝廷より菩薩の称号が与えられ、行基菩薩と言われるようになった。安置されている薬師如来像は行基菩薩作とされている。
 また、昭和三八年の豪雨で本堂脇の岩山が崩れ落ちた際、本堂は岩の下敷きになったが、像はお堂の外に飛び出し傷一つなく無事だったという話も残る。巨大な岩は今も本堂のすぐ傍にある。
 四月八日の「花祭りの日」には屋根を花で飾った花御堂が作られ、家内安全・無病息災を祈願する人たちで賑わう。
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2007/10/2


行基 Gyouki Gyoki

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 行基(ぎょうき)は奈良時代の僧。古代民間仏教のカリスマで、その偉業により行基菩薩と尊称された。
 天智天皇七(668)年、河内国(現・大阪府)に誕生。法興寺の道昭を師として、一五歳で出家。仏教教理の他に、土木技術を学んだ。
 「教団は王権から独立すべきである」という三階教の教えを根本思想に、伝道と社会事業を融合させ、民衆を煽動した。畿内を中心に諸国を巡り、造寺、墾田開発、橋梁架設などを押し進めた。
 驚異的な指導力が朝廷に危惧され、僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進役を買って出ると、逆に朝廷より大僧正位を授けられた。
 大仏造営中の天平二一(749)年、奈良・菅原寺で八一歳で入滅。『日本霊異記』『本朝法華験記』『日本往生極楽記』に数々の伝説が残る。行基の軌跡を記した「行基図」が、日本地図の原型という説もある。
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2007/8/7


広隆寺 弥勒菩薩半跏像 Kouryu-ji-Miroku-bosatsu-hanka-zou Miroku Bosatsu Hankashi-yui-zou Statue at Koryuji Temple

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 弥勒菩薩(みろくぼさつ)は、やがて仏となり、未来の世に現れ衆生を導き救うとされ、未来仏として信仰されている菩薩様である。
 弥勒菩薩の中でも最も有名なのが、京都府京都市太秦の広隆寺霊宝殿に安置されている弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかぞう)である。右手の薬指を頬にそっとあて、物思いにふける姿でよく知られている。
 赤松で作られた像の表面には、金箔が光り輝いていたといわれているが、その制作地については、原材料や作風等から中国からの渡来像であるとする説と、日本で制作されたとする説があり、今なお決着を見ていないという。
 微笑んだ面差しと、頬にあてられたたおやかな指が繊細で官能的。全体的に丸みを帯びた美しい曲線が、女性的な印象を与える仏像である。涼しげな目元が中国伝来説を裏付けるかのようにも見える。
 この弥勒菩薩半跏像のたたえる微笑みは、通称「アルカイックスマイル」と呼ばれ、親しまれている。
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2007/2/20


宝陀寺 仁王像 Houda-ji Niou-zou 

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 宝陀寺は、大分県杵築市大田にある臨済宗の禅寺である。本尊は千手観音像であり、村指定の有形文化財とされる。
 創建は大同3(808)年といわれ、沓掛城主田原直平の再建とされる。
 宝陀寺は、元々は天台宗であり、後に臨済宗に改められた。
 宝陀寺にある仁王像は、身長約33cmの石造仁王像で、2.5mの千手千眼観世御菩薩をしっかり守っている。
 神聖なものながらも、大変可愛らしい二体のミニチュア石造仁王像であり、寺を訪れるものを和ませてくれる。また、その小ささは、石造仁王像として大分県内で最も小さいと言われている。
 宝陀寺仁王像は、阿吽の形も微笑ましい、ミニサイズながらも立派な金剛力士像である。
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2007/2/15


観音寺 Kan-non-ji Kannon Temple

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 観音寺は奈良県桜井市、音羽山の山中に位置する融通念仏宗の寺院。山号は音羽山。尼寺三十六所第八番。
 白鳳時代に藤原鎌足を妙楽寺に祀った際に、鎌足の子、定慧が鬼門除けとして建立。鎌足の手による梅の木の「手千眼十一面観世音菩薩」を祀ったのが始まりとされる。
 平安時代には上院、下院、諸堂を有し「音羽百坊」と称され大いに栄えた。貞観十八(876)年に音羽流れと言われる大洪水により多くを流出、現在の堂宇が残る。
 本尊は手千眼十一面観世音菩薩、眼病に霊験あらたかであるといわれ「音羽の観音さん」として親しまれる。
 境内には眼病に利くと言われる音羽の滝や、ギンナンにイチョウの葉が付いたお葉つきイチョウがあり、お守りとして伝えられている。
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奈良 大願寺 Nara Daigan-ji Nara Daigan Temple

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 大願寺は奈良県宇陀市大宇陀区に位置する真言宗御室派の寺院。山号は薩垂山(さったさん)。別名を七福寺。
 聖徳太子の命により、蘇我馬子が建立したと伝えられる。江戸時代には宇陀松山藩により保護され、隆盛を誇った。
 本尊は神亀元(724)年に作られた十一面観世音菩薩像、明治十八(1885)年に火災にあいながらも土の中から見つかったことから「焼けずの観音」として知られ、火災、災難除けに御利益がある。
 境内には奈良では珍しい仏足石や、森野旧薬園の園主であった森野好徳の筆塚などが安置されている。
 近隣で採れた薬草を使った精進料理が食べられることでも有名。
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2007/2/12


大分 清水寺 Ooita Shimizu-dera Oita Shimizudera Temple

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 宝陀寺に隣接する歴史の古い清水寺は、曹洞宗で、山号は補陀落山(ふだらくさん)。清水観音とも呼ばれる。 本尊の十一面千手観音は秘仏。九州西国三十三観音霊場第3番札所である。
 境内の一角にある岩山から湧出する清水は、大分県の「豊の国名水15選」に選ばれ、遠く平安の昔から水量に変化がなく、どんな大雨や干ばつの時でも、影響を受けた事がないといわれている。年間を通しての湧出量は変化せず、夏・冬とも変わらぬ清水が、今日でも周辺の田畑を潤している。この水は「不老長寿の水」として伝えられており、胃腸や糖尿病に特効があると言われる。見事なシイ林を背に、辺りを見回すと静かな段々畑が広がっているので、それを眺めているだけでも、寿命が延びるようだ。
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