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2008/9/12


藩校明倫館跡 Hankou-meirinkan-ato 

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 藩校明倫(めいりん)館跡は、山口県萩市江向にある藩校跡である。国の史跡に指定されている。
 明倫館は萩藩上級武士の子弟の教育機関として、享保四(1719)年、長州藩主・毛利吉元が城内三の丸に創建し、幕末の嘉永二(1849)年、毛利敬親が現在地に移した。
 当時、明倫館は水戸の弘道館、鹿児島の造士館と並んで天下三館の一つと呼ばれるほどの藩校と言われていた。
 敷地は1万5000坪と広大で、萩商高、萩裁判所の辺り一帯にまで及んだが、慶応三(1867)年、藩校としての明倫館は廃止された。
 現在は小学校となっており、敷地内に有備館、水練池、聖賢堂、観徳門のみが残っている。
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2008/9/8


水海の田楽能舞 Mizaumi-no-Dengaku-Nou-Mai 

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 水海の田楽能舞(みずうみのでんがくのうまい)は、福井県今立郡池田町水海の鵜甘(うかん)神社にて行われる伝統行事である。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 建長二(1250)年、北条時頼がこの地を訪れ、雪深い池田に滞留して一冬を過ごす事となった。村人達は宴をひらき田楽を舞い、都を思い恋しくなる時頼を慰めると、喜んだ時頼がお礼に能を舞って村人達に教えた。その結果、田楽と能を合わせた珍しい田楽能舞が、この地に継がれる事となったと伝えられる。
 町内には色々な能面が残されており、小学校の授業で子供達が能面を作ったり、水海の田楽能舞の奉納を見学するなど、田楽能舞は人々の心に溶け込んでいる。
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2008/8/19


龍岡城 Tatsuoka-jou 

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 龍岡城(たつおかじょう)は、長野県佐久市にある城跡である。
 日本に二つある星形の西洋式城郭の一つで、もう一方の函館の五稜郭と同じ形をしていることから「龍岡五稜郭」の別名も持つ。
 三河奥殿藩の藩主だった松平乗謨(まつだいらのりたか)により、洋式築城の許認可を幕府に届け出て、慶応二(1867)年に築城された。
 その後も五稜郭を取り囲むように外堀が掘られていったが、完成を見ずに明治維新を迎えることとなり、堀もその途中で作業が中断されて現在のように途中までのものとなっている。
 実戦において極めて優れた城とされるフランスのヴォーバン城をモデルとしているものの、壁が低くて水堀も狭く、砲台も西方に一基しか無いため、龍岡城はあまり実戦には向かないものと見られている。
 現在では跡地に小学校が建ち、稜保式の石垣や水堀、御台所が遺構として残っている。
 幕末の動乱の中で築かれた城は、今は小学生達の元気のよい掛け声と共に余生を送っている。
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大原はだか祭り Oohara-hadaka-matsuri 

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 千葉県いすみ市大原地区では秋になると、全国屈指の勇壮な祭り「大原はだか祭り」が行われる。大原はだか祭りの起源は定かではないが、娯楽の少なかった江戸時代に、住民の意思疎通を図るために始まったとも伝えられている。
 大原・東海・浪花三つの地区の一八の神社の神輿が大原漁港に集結し、五穀豊穣漁が祈願される。その後勇ましい掛け声とともに神輿を肩にかついだ人々が水中を駆け巡りもみ合う、「汐ふみ」が勇壮に執り行われる。
 その後、全ての神輿は大原小学校へ約一km道のりを賑やかに移動する。こちらもまた見物の「商店街渡御」である。
 校庭に着いた神輿はまた、全力で駆け回る。やがて日が落ち、提灯に灯りが灯される頃になると、校庭は神輿と人で埋め尽くされ、神輿を投げては受け止めを繰り返し、最後に「大別れ式」という見所を迎える。「大別れ式」では哀愁を帯びた別れを惜しむ唄が唄われる。
 荒々しさと優しさの二面性を持った祭りは二日間に亘って行われ、多くの人で賑わう。
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2008/7/30


棒の手 Bou-no-te 

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 「棒の手(ぼうのて)」は愛知県に古くから伝わる、代表的な民俗芸能の一つで、剣術や棒術など武術の形を踊りにした、いくつもの流派を持つ日本舞踊である。
 棒の手の起源は定かではないが、一説によると本郷城主、主丹羽若狭守氏清(たんばわかさのかみうじきよ)が、農民達に武術を習得させたのが始まりだといわれている。丹羽氏の勢力と共に各地に広まったとする説や、修験道の影響が大きいとする説もある。
 以来、棒の手は若者衆により受け継がれ、小学校卒業から一六歳頃までの一定の年齢に達した男子は、青年会などの組織に入り、棒の手の手習いを受けたという。月に六回練習日を決めて通い、三年または六年目にしてようやく、年齢、技量、人格が備わった者にのみ免許が与えられる、厳しい道であったとされる。
 現在も県内各地でその各流派の伝統が守り続けられており、木刀や槍、薙刀などを使った迫力のある技が披露されている。
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2008/6/23


鳥羽城 Toba-jou 

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 鳥羽城(とばじょう)は、三重県鳥羽市鳥羽にあった城である。
 平安時代の末期、橘氏がこの地を領し、居館を築いて鳥羽殿と呼ばれていた。戦国時代に入り、伊勢波切城主であった海賊・九鬼嘉隆は織田信長を後ろ盾にして橘宗忠を攻略、宗忠の娘を妻として鳥羽城を奪い取り、一円を支配した。
 文禄三(1594)年、九鬼嘉隆(くきよしたか)は鳥羽湾に浮かぶ小島に海城・鳥羽城を築いた。
 九鬼氏は信長、秀吉配下として活躍したが、徳川時代になってお家騒動で分裂し、以後は次々と城主が入れ替わり、享保一〇(1725)年、稲垣昭賢が入城、明治維新まで続いた。
 現在、本丸が小学校のグラウンドとなり、市役所・城山児童公園・旧鳥羽幼稚園などが城跡に造られていて、僅かに石垣が遺構として残っている。
 鳥羽城は、海賊・九鬼氏ゆかりの天然の要害であった城である。
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2008/5/26


三田城跡 Sanda-jyo-ato 

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 三田城跡(さんだじょうあと)は、兵庫県三田市屋敷町にある城跡である。
 天正二(1574)年、伊丹城主・荒木摂津守の武将である荒木平太夫の居城として車瀬城を築城し、門前集落を基礎とした城下町が建設された。
 戦国時代末期から、山崎堅家、有馬則頼、松平重直と城主が代わり、寛永一〇(1633)年、志摩鳥羽の九鬼久隆が三万六千石の大名として入封した。同時に以前からあった車瀬城を廃し、三田城を築いた。
 城跡は現在の三田小学校のあるところで、有馬高校実習園が二の丸跡となっている。三田小学校前には城跡碑があり、有馬高校との間にわずかに内堀が残る。
 大池は三田城の堀であった所で、九鬼氏が山間の三田に移されても九鬼水軍の昔を忘れぬように、と舟艇操縦の練習をした場所である。
 三田城跡は、三田市の中心にある、かつて要害だった城跡である。
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2008/4/25


斐伊川和紙 Hiikawa-washi 

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 斐伊川和紙(ひいかわわし)は、島根県雲南市に伝わる伝統工芸品である。
 斐伊川沿いの奥出雲地方は、古くから「紙漉きの里」として知られており、斐伊川の清流付近から生産される良質な雁皮(がんぴ)・楮(こうぞ)・三椏(みつまた)の原料を使い、障子紙、中折半紙などの生産を行なっていた。
 江戸時代には松江藩主による保護奨励もなされ、出雲地方最大の紙の生産地となった。
 明治以降、和紙生産伝習所を設置して高等小学校2年生を対象に紙漉き技術の指導を行ない、後継者育成に力を入れたが、安価で大量にできる機械製品に押され、現在製作しているのは七代続く和紙職人1人となってしまった。
 各種材料の特性を活かし様々な用途に活用できる斐伊川和紙は、強靭で長期保存に堪える特性を持っている。
 斐伊川和紙は、和紙ならではの美しさが人気の伝統工芸品である。
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