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鎌倉時代に創築されたと言われ、長い間七戸南部氏の居城であった。江戸期になってからは南部(盛岡)藩領となり、代官所が置かれていた。
城は柏葉城とも呼ばれ、作田川、和田川合流点付近の、北西から市街地へ延びる比高40mの洪積台地の先端を利用して造られている。遺構は本丸、二の丸、北館、下館、宝泉館、西館、角館の7郭より成り、(指定面積は約9万5千平方m)各郭には独立性が認められ、空堀、帯郭、腰郭、虎口、武者隠し等もみられる。
天正十九(1591)年、城主7戸家国は九戸政実の一揆に加担して滅び、翌年城は壊された。
現在、七戸城跡保存管理計画に基づき、北館の発掘調査を行っているが、平成8年、本丸、二の丸間の堀跡が確認され、また15世紀頃の遺物が出土している。
城は柏葉城とも呼ばれ、作田川、和田川合流点付近の、北西から市街地へ延びる比高40mの洪積台地の先端を利用して造られている。遺構は本丸、二の丸、北館、下館、宝泉館、西館、角館の7郭より成り、(指定面積は約9万5千平方m)各郭には独立性が認められ、空堀、帯郭、腰郭、虎口、武者隠し等もみられる。
天正十九(1591)年、城主7戸家国は九戸政実の一揆に加担して滅び、翌年城は壊された。
現在、七戸城跡保存管理計画に基づき、北館の発掘調査を行っているが、平成8年、本丸、二の丸間の堀跡が確認され、また15世紀頃の遺物が出土している。
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