NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/7


御簾 Misu 

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 御簾(みす)とは部屋と部屋の間の柱と柱を水平につなぐ長押(なげし)に掛けて、仕切りや目隠しをする用具のことである。
 古代から用いられ、はじめは神域や神聖な場所との境のために使用されていたが、その後、貴族や身分の高い人の住居の仕切りや装飾用として広まっていった。
 御簾は真竹や女竹を細長く削り、色染めした後、赤糸でまとめ、帽額(もこう)と呼ばれる果紋(かのもん)を織り込んだ美しい布で縁を囲んだものである。巻き上げて束ねて留めておくことができるように、裏に鉤(こ)と呼ばれる鉤爪が付けられている。鉤は総角(あげまき)結びの飾り紐で固定するようになっている。
 竹の編む時は絹糸を使い、葵を形取って竹を編み上げる葵あみ、六角模様を形取って編み上げる亀甲あみや、二本一組のラインで竹を編み上げる八重あみなどがある。
 『源氏物語』では、登場人物の心の機微を表現するアイテムとしてよく登場する。
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2007/11/8


因州和紙 Insyuu-washi 

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 因州和紙(いんしゅうわし)は、鳥取県東部地方で生産される和紙で、製品には画仙紙、書道半紙、襖紙などがある。昭和五〇(1975)年五月、通商産業大臣(現経済産業大臣)により伝統的工芸品に指定された。
 江戸時代前期から中期にかけて、藩が公務で使う御用紙を全て藩内でまかなうことを目的に作られたのが始まりとされている。明治時代に入ると、県の指導により和紙の原料となる三椏(みつまた)栽培に力が注がれるようになり、製紙工場数は江戸時代の約五百から千三百以上に増加した。昭和時代中期になると、手漉きの画仙紙、書道半紙や工芸紙の生産が軌道に乗り、因州和紙は更なる発展を遂げた。
 製法は、とろろ葵の根から作った液を紙料液に加えて簀桁(すげた)で汲み、揺り動かしながら繊維を絡め合わせ、何度も汲み上げることによって希望の厚さを求めてゆく。この工程には高度な技術と豊富な経験が必要で、名工と呼ばれる職人の漉いた紙は、百枚が百枚とも同じ重さで、厚さにも偏りがないという。
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2007/10/9


上川崎和紙 Kamikawasaki-washi Kami-Kawasaki Washi Paper

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 上川崎和紙(かみかわさきわし)は、福島県二本松市上川崎に伝わる伝統工芸品である。県の重要無形文化財に指定されている。
 今から千年以上前、平安の中期、冷泉天皇(967~969)の頃に始められたと言われており、平安時代には「みちのくの紙」として上流社会で珍重され、紫式部や清少納言たちに愛された「まゆみがみ」はここで漉かれたていたとも言われている。
 江戸時代には、二本松藩、丹羽藩主が産業振興の立場から紙漉きを許可制にして奨励し、今日の手すき和紙の基礎が築かれた。
 この時代には、既に原料には地元・上川崎で栽培した楮と、とろろ葵を主としており、江戸時代寛政年間の書物、紙漉重宝記によると、その製法・技術は現在とほぼ変わっていない。
 上川崎和紙は、伝統の技を受け継いだ歴史ある和紙である。
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2007/9/14


高月院 Kougetsu-in Kogetsuin Temple

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 高月院(こうげついん)は、徳川家の始祖松平親氏(ちかうじ)、泰親(やすちか)の菩提寺として知られる。境内にある松平家墓所は、周囲を石製の塀で囲んでおり、葵の紋が刻まれた扉がつけられ、中央に親氏、そして泰親、親忠夫人の墓が並んでいる。
 高月院はもともと「寂静寺(じゃくじょうじ)」ともいい、貞治六(1367)年に足助重政(あすけしげまさ)が、親氏の妻の父親である在原信重の援護を受けて建立した。永和三(1377)年、松平親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔を寄進してから「高月院」と改め、松平氏の菩提寺となった。
 その後、慶長七(1602)年、徳川家康によって寺領百石が与えられた。寛永一八(1641)年、三代将軍家光により山門や本堂が再建され、明治維新まで徳川将軍から厚い保護を受けてきた寺である。
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2007/8/7


弘前東照宮 Hirosaki-toushouguu 

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 弘前東照宮(ひろさきとうしょうぐう)は、江戸時代初期に全国に作られた徳川家康を祀る東照宮の一つで、津軽藩二代藩主・津軽信枚(つがるのぶひら)が元和三(1617)年に日光東照宮に祀られている徳川家康を分霊。弘前城本丸に勧請し、寛永元(1624)年現在地に移した。
 他の地域にある東照宮と比べ早い時期に勧請できたのは、信枚の正室が家康の養女であり、親藩に準ずる家柄と認められたためであった。
 本殿は白木造りで、屋根の装飾である鬼板(おにいた)や屋根の両端部分を装飾する妻飾(つまかざり)、梁の上に置いた受け木である蟇股(かえるまた)には徳川家の家紋である葵紋が彫られている。
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2007/6/7


能面 泥眼 Noumen Deigan Noh Mask Deigan

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 能面の泥眼(でいがん)は、能「海士」のような神霊の役の面として考案されたが、後に能「葵上」など怨霊の役にも使われるようになった能面である。
 「泥眼」の名は、目に金泥が塗られているところからの命名である。目や歯に金が入れられることはしばしばあるが、現世を超越した存在を意味するという。
 「葵の上」では、前ジテである六条御息所の生霊が嫉妬に狂う心とそれを鎮めようとする複雑な心情を、この能面で表現する。ほつれ髪が顔にかかり、口は物言いたげにわずかに開き、眼には哀しげな表情が宿っている。品の良い美女の、恨みと救いを求める様を見事に表現した能面だ。
 「泥眼」は、怖さと品格を兼ね揃える妖気漂う面である。
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2007/6/5


又兵衛桜 Matabee-zakura Matabei Cherry

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 奈良県宇陀市にある「又兵衛桜」。樹齢300年とも言われるしだれ桜で、枝ぶりは大変見事。満開のころには写真家、観光客で賑わう。
 「又兵衛桜」の名前の由来は、大阪夏の陣で活躍した槍の又兵衛と異名を取る、後藤又兵衛基次から来ているそうだ。又兵衛は、戦いに敗れ、ここ宇陀の地で僧侶になり、姓を後藤と名乗ったという。この地はかつて後藤家の屋敷跡でもある。
 かつてはあまり注目されることのなかった又兵衛桜が全国的に有名になったのは、2001年にNHK大河ドラマ「葵・徳川三代」のオープニングで使われたのがきっかけ。これを機に、近隣からだけでなく、毎年大勢の花見客が訪れるようになったとか。
 夜にはライトアップも行われ、まるで滝が空から降ってくるかのような豪快な美しさがさらにきわだつ。
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2007/5/29


能面 般若 Noumen Hannya Noh Mask Hannya

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 能面(のうめん)とは、能楽に用いる仮面である。
 般若(はんにゃ)は、嫉妬に苦しみ訴える女を表現している。彩色によって3種類に分類され、役柄によって違う。
 白は上品で控えめに表現され、葵上など高貴な女の嫉妬を表す。赤は中品で道成寺を、黒は下品で完全な鬼に近い安達原を表している。いずれも、耳まで裂けた口で泣き怒った恐ろしい表情の面である。
 恨みの復讐の敵愾心を芸術化したものともされている。
 本来、般若は仏教用語で、その漢訳語「智慧」の同義語であるが、般若の面との関係は薄い。
 一説には、般若坊という僧侶が作ったところから名がついたとも、般若心経で心機一転する怨霊から、とも言われている。
 般若は、能の「葵上」「道成寺」「安達原」「黒塚」などに使用される女の嫉妬の能面である。
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