NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/22


小判 Koban 

Jp

 小判(こばん)とは、江戸時代に流通した小型の金貨である。
 慶長六(1601)年、前年の関ケ原の戦に大勝した徳川家康は、幕府開設に先立ち金座・銀座を設けて貨幣を鋳造した。
 全国に通用させることを目的として、金貨としては小判と一分金が鋳造され、単位には甲州金で用いられていた両・分・朱が採用された。これが慶長小判である。
 慶長小判は質量ともに最も良く、重さ18g、純度86%の良貨で、山吹色をした代表的な小判としてよく知られている。
 しかし以後は、正徳享保期を除き、時代ごとの経済政策により金含有率・重量ともに改悪されることが多く、時代毎に発行された種類によって大きく価値が違ったものになった。
 明治以降は新貨条例が施行され、小判は新貨幣と交換され、流通しなくなっていった。
 小判は、江戸時代に作られ、用いられた日本の貨幣である。
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大判 Ooban 

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 大判(おおばん)とは、一六世紀以降、日本で生産された金貨の一種で、叩いて薄く延ばし広げた延金(のしきん)の中でも、楕円形で特に大型のものをいう。
 金貨として規格化されたのは、天正一六(1588)年に秀吉の命で製造したものが始まりとされ、以降、文久二(1862)年まで製造が続けられた。
 その重量は約165グラムでほぼ一貫しているが、純金含有量を示す金の品位は製作された時代により変化している。
 表面には、上下左右に五三桐(ごさんのきり)と呼ばれる刻印が四つと「拾両後藤」の文字と製造を担った京の金工を家業とする後藤家当主の花押が墨書きされ、裏には六つの刻印が刻まれている。
 日常取引用ではなく、恩賞など特殊な目的に用いられることが多かったため、基本的には小判やその他の貨幣のように公定価格がなく、品位を参考に独自の大判相場があったとされる。
 その種類は、規格化されたものとしては秀吉の天正大判から、万延元年の万廷大判まで、十一種類が確認されている。
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2007/1/9


京都 金属工芸品 Kyoto Kinzokukougeihin Kyoto Metal Crafts

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 金、銀、銅、鉄、真ちゅうなどの金属を、「溶かして型に流し込む」、「たたく」、「彫る」などの技法を使って形作り、表面を加工して仕上げるのが金属加工品だ。平安時代から京都に伝わり、千二百年の歴史を誇る伝統工芸品だ。
 奈良時代、仏教の興隆とともに寺院や仏像が増え、それに伴って金工技術が発達した。平安時代に京都遷都が行われると、金工師たちは奈良から京都へ移り住み、武具や貨幣、大がかりな鋳造品まで様々な金属工芸品が作られるようになったという。以来、金属工芸は京都の洗練された美意識と文化によって育まれ、造形の美しい緻密な装飾が特徴の独自の技術を発達させてきた。
 生活に必要な鍋や釜から鐘などの神仏具、細かい手仕事によるアクセサリー。現代では様々な金属工芸品が作られ、それぞれの用途に応じて洗練された意匠と高度な手工業技術を発揮している。
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