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2007/6/11


石薬師宿 Ishiyakushi-juku Ishiyakushi-juku

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 石薬師宿(いしやくしじゅく)は、東海道五十三次のうちの第四十四之次であり、宿場の名は石薬師寺の名に因むという。
 1616年頃、四日市・亀山間に宿場がなく、旅人が難儀していたため、付近の村々から人家180軒を集めて宿立てしたのが始まりとされる。
 東海道・国道一号線とは言え、宿場は道一本はずれた旧道沿いにあるため、現在はひっそりとした静けさにつつまれている。
 宿立ての中心を担う本陣を勤めた小沢家には、宿場の関連文書も残っており、大岡越前守や忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の資料も残されている。
 また近隣には「夏は来ぬ」の作詞で有名な佐佐木信綱の生家も保存されており、その南隣には立派な佐佐木信綱資料館がある。信綱の第1回文化勲章をはじめとする遺品、著書、書簡、原稿など2000点あまりが収蔵・展示されている。
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2007/5/31


郡山宿本陣 Kooriyamajuku-honjin 

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 郡山宿本陣は、江戸時代に京都と江戸を結ぶ重要な幹線、西国街道の宿場であった。
 本陣とは、大名・公家・幕府役人などが宿泊した公的な旅宿のこと。郡山宿本陣は、京都から江戸までの真ん中にある宿駅として、重要な役割を果たしてきた。各有力大名も宿泊しており、忠臣蔵で有名な赤穂城主浅野内内匠頭も泊まったという記録が残る。慶応元(1865)年には明治天皇が立ち寄ったとのことだ。
 正式名称を「摂津郡山駅本陣」と言うが、御成門(正面入り口)の脇に美しい椿の老木が花を咲かせることから、通称「椿の本陣」と呼ばれ、人々に親しまれてきたという。
 建物は享保三(1718)年に焼失したが、3年後の享保六(1721)年には再建され、以後約280年間もの間当時の姿そのままを今にとどめている。
 郡山宿本陣は、国の史跡に指定されているが、現在も子孫の梶家が居住しているため、見学には予約が必要とのことだ。
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2007/2/22


笠間稲荷神社 Kasama-inari-jinja Kasama Inari Shrine

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 笠間稲荷神社のご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、正一位という最高の位をもつ神様であり、また日本三大稲荷のひとつでもある。
 創建は、第36代孝徳天皇の御代、白雉(はくち)2(651)年とされ、1350余年の歴史を有する由緒ある神社。
 江戸時代になると広く知られるようになり、歴代の笠間藩主が厚く崇敬した。三代藩主松平康長や忠臣蔵で有名な浅野家なども、転封し笠間を離れても分霊を新たな領地で祀るなど、庶民のみならず歴代藩主からも手厚い信仰を受けてきた。
 五穀豊穣、商売繁盛の神として古くから厚く信仰され、関東はもとより日本各地から年間350万人の参拝客が訪れる。また正月の初詣には毎年50万人前後の参拝者が訪れ、茨城県初詣参拝者数第一位である。
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大石邸跡 Ooishi-tei-ato 

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 忠臣蔵で知られている大石内蔵助の祖父で笠間藩家老だった大石良欽邸の跡。
 浅野氏は、赤穂転封の前は笠間藩主で、赤穂へ移って57年後に浪士の討ち入り事件が起こっている。
 義士の中には、笠間藩で取り立てられた藩士の子孫も数多く加わっており、浅野氏が笠間を領したのは、長重、長直(良矩の祖父)の2代で共に城下町の整備に努めた。
 また、長直は佐白藩庁まで藩士が往復する困苦を配慮して山麓(今は、公園になっている)に下屋敷を造り、ここで政務を執らせた。
 白壁の荘麗なものであった為、幕府から新城造りと誤認され、これが原因となって赤穂へ転封・国替えの原因となったともいわれている。
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2007/2/14


華蔵寺 Kezou-ji Kezo Temple

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 愛知県幡豆郡吉良町にあるお寺。
 歴史は1600年、吉良義定(きらよしさだ)が吉良家の菩提寺として建立されたといわれる。金星山華蔵寺と称し真言宗であったとされる。
 本堂裏手には枯山水式の見事な庭園がある。吉良家代々の墓のなかには、忠臣蔵にでてくる、吉良上野介義央(きらこうずのすけよしひさ)の墓もある。
 本堂にある駿河国松陰寺の白陰に師事した、池大雅(いけのたいが)作の花鳥風月が描かれた44面の襖絵がある。普段は収蔵庫にあるが、正月には本堂で公開されている。
 吉良上野介義央自らが彩色したという木像は県指定の文化財にもなっている。
 毎年12月4日には吉良義央公毎歳忌が行なわれている。
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2007/1/18


草津宿本陣 Kusatujuku-honzin Kusatsu-juku Honjin

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 東海道五十三次の、江戸から52番目の宿場。寛永十二年設置から明治三年の廃止まで二百三十五年間、大名や役人等の休泊を担った。
 東海道と中山道の分岐・合流点でもあり、かつては100軒をこえる旅籠が軒を連ねた要衝の地。現存する本陣の中で最大級の規模で、宿帳には浅野内匠頭や吉良上野介などの名も見られる。
 草津宿本陣には「大福帳」の表題をもつ長帳が、元禄五(1692)年から明治七(1874)年に至る百八十二年間にわたって、各年一冊、計百八十二冊が残されている。
 江戸時代、本陣を頂点にさまざまな宿泊施設が集まっていた宿場。草津宿も同様で、本陣二軒、脇本陣二軒、旅篭屋は七十軒余を有し賑わいをみせ、なかでも、「田中七左衛門本陣」は建物をはじめ、敷地全体で当時の面影を今に伝える。昭和二十四年、「草津宿本陣」として国の史跡に指定され、多くの人を江戸の世界に誘う。
 「平成の大修理」を終え、平成八年四月より一般公開を開始した。
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2006/11/29


大畑家の武者絵のぼり Oohatake-no-mushae-nobori Mushae-nobori by the Ohatas

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 栃木県市貝町では5月5日、端午の節句に、男の子の無事成長と立身出世を願って「武者絵のぼり」を立てる風習がある。
 上野国小畑の城主であった旧家、大畑家は江戸時代から紺屋業を営み、赤穂浪士の討ち入り衣装を染めたなどの口碑伝承が残っている。明治22年(1889年)には武者絵のぼりの制作を始め、以来3代に渡り伝統の技を受け継いでいる。
 かつては全て手描きであったが、現在はひとつの絵柄につき約30枚の型紙による型勢と手描きの併用としている。絵柄は戦国武士・武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉など。面相が勇壮で気品にあふれ、髭の部分の刷毛使いが見事。歴史の英雄たちの息づかいが感じられるほどの迫力がある。
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2006/11/28


新発田城 Shibata-jyou Shibata Castle

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 新発田城は、現在の新潟県新発田市にある城郭。別名、菖蒲城(あやめじょう)。新潟県内では唯一、江戸時代当時の城郭建築が残る城跡である。
 この城は、室町時代、1596年に初代新発田藩主・溝口秀勝(ひでかつ)が築城し、3代宣直(のぶなお)のときに完成。以来、版籍奉還まで約270年間、外様大名溝口氏の居城であった。
 新発田城は山城とは違い、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地に作った平城。石垣が隙間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込みはぎ」と呼ばれる美観を重視した技法を取り入れている。また、北国の城特有の海鼠壁(なまこかべ)は全国的にも珍しい。
 城の表門前には新発田藩家臣の血をひく堀部安兵衛の銅像がすっと立ち、しっかりと江戸を見つめている。
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