NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/8


都於郡城跡 Tonokoori-jyou-ato 

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 都於郡(とのこおり)城跡は、宮崎県西都市荒武にある城跡である。国の指定史跡に登録されている。
 建武二(1335)年、伊豆から下向した伊東祐持(すけもち)が足利尊氏からこの地を拝領し城を築いた。標高100メートルの高台にあり、三財川が外堀の役目を果たした。遠くからの眺望が、海原に舟が浮いているように見えていたことから別名「浮舟城」と呼ばれていた。しかし、天正五(1577)年、伊東氏は島津氏と木崎原の戦いで敗れ、落城となった。
 現在、城は原形をとどめておらず、空堀、土塁などが僅かに残るのみである。平成一三(2001)年から遺構確認調査が行われており、二の丸の一部から多くの柱穴や虎口の関連施設の遺構が見つかっている。
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2008/8/13


湯築城 Yuzuki-Jou 

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 湯築城(ゆづきじょう)は、愛媛県松山市にあった城である。国指定史跡となっている。建武三(1336)年、河野通盛により築かれ、以後、伊予・河野氏の本拠となる。
 天正一二(1584)年、河野氏は、伸張してきた長宗我部の軍門に降る。翌年、豊臣秀吉の四国征伐によって湯築城は陥落した。同一五(1587)年、城主小早川隆景が転封し、福島正則が入城するが、居城を府中城へ移したため、湯築城は廃城となった。
 多くの中世城郭が消滅した中にあって、湯築城は市街地にありながら外堀・内堀・土塁など、ほぼ完全な姿を残す希有な例である。現在、城跡は道後公園となっており、武家屋敷や土塀などが復元されている他、土塁展示室で土塁の内部を見学することが出来る。
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2008/6/30


平林城 Hirabayashi-jou 

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 平林城(ひらばやしじょう)は新潟県岩船郡神林村平林に位置する中世時代の居城跡である。別名加護山城(かごやまじょう)とも呼ばれている。
 築城年は不明であるが、一四世紀頃の南北朝時代に存在した。最初は南朝派の豪族平林氏の居城であったが、のちに北朝派の色部氏が制圧した。
 慶長三(1598)年に上杉景勝の会津移封により廃城となり、周囲の人口も激減したため風化していった。
 数多くの遺構が残っており曲輪、堀切、土塁、空堀、虎口、馬洗い、首切り清水などが発掘されている。
 中世史を理解する上に重要な史跡として、昭和五三(1978)年、国指定の史跡名勝記念物となった。
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越中 安田城 Eccyu Yasuda-jou 

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 安田城(やすだじょう)は富山県富山市にある城址である。
 近隣の井田川の水を引き入れた広い堀が巡らされ、水堀に浮かぶ浮城のようである。本丸、二の丸、右郭で構成された戦国時代の平城で、城の建物は今はないが、発掘調査を経てその外形は現在も良い状態で残されている。
 安田城が創建された年は不明であるが、天正元年(1573)年の資料にはすでに存在している。
 天正一三(1585)年、豊臣秀吉が富山城主佐々成政を征伐した際、秀吉側の前田利家の家臣がこの城で陣を取った。これを機会にのちに前田利家やその家臣が居城としたが、一国一城令が発令される頃に廃城となった。
 昭和五六(1981)年に国指定史跡となっている。
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2008/6/20


村上城(臥牛山城) Murakami-jou(Gagyuuzan-jou) 

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 村上城(むらかみじょう)は、新潟県村上市一之町の臥牛山(がぎゅうざん)にあった平山城で、歴代の村上藩主の居城であった。またの名を「臥牛山城」とも言う。標高135mの「臥牛山」は、その山容が、草の上に伏した牛の姿に似ている。
 戦国時代、この地の領主で上杉家家臣であった本庄氏が築城したとされ、当初は木柵がはりめぐらされた中世式の城郭であった。
 慶長三(1598)年、上杉景勝の会津転封に伴い本庄氏も会津へ追従した。上杉転封のあとに越後には堀秀治が入封。このため村上城も堀秀治の家臣・村上頼勝が領主となり、その時に、城下町の整備と共に石塁が増築され、三層造りの天守閣も造営された。
 村上氏以降、幕末まで約二〇回ほども城主が入れ替わり、幕末に旧幕府軍側にたった村上藩は新政府軍の攻撃を受け、城は自落。残った建物もすべて焼失した。
 現在は石垣、門礎石などが残っており、散策コースが整備されている。平成五(1993)年に国指定の史跡となった。
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2008/5/12


能島城跡 Noshima-jou-ato 

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 能島城跡は、宮窪港沖合の浮かぶ周囲720mの島である。応永二六(1419)年、村上雅房(むらかみまさふさ)が築城したと言われる。
 能島村上水軍の中枢本部として栄えていたが、天正一六(1588)年、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の海賊禁止令により、村上氏が九州へ移り無人島になったとされる。
 島全体が海城だったが、現在は船溜り跡の石塁を残すのみとなっているという。
 能島の隣に位置する小島鯛崎島との間にある岩礁の上には、大かがりな桟橋防材の跡や、干潮時には丸い柱杭の穴が無数に残っているのも見られる。
 春には桜が島全体を埋め尽くすほどに咲き乱れ、桜の名所としても有名である。普段は交通手段がないので、カレイ山展望公園から望むだけだが、桜まつりの2日間だけはシャトル運行の船便が出て賑わうという。
 現在は、国指定史跡になっているという。
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2008/3/31


観音寺城跡 Kannonji-jou-seki Kannonji Castle Ruins

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 観音寺城跡(かんのんじじょうせき)は、滋賀県蒲生郡安土町石寺にある城跡である。国指定の史跡となっている。
 築城年代は明らかでないが、標高432・7mの繖山(きぬがさやま)、通称観音寺山に近江の守護・佐々木氏累代が居城し、同氏が六角と京極の二流に分かれてのちは、惣家六角氏の居城となった。
 永禄一一(1568)年、六角義賢・義治父子の時、上洛を目指す織田信長に進攻されて落城、以後は廃城となった。
 ほぼ全山を城域として、いたるところに石塁・土塁をめぐらし、大小無数の郭を構築した中世山城として全国有数の規模をもつ。
 山頂付近の西国札所の観音正寺周辺には巨石を組んだ石垣などが残り、ハイキング道としても楽しめる。
 観音寺城跡は、かつての佐々木氏・六角氏を偲ばせる史跡である。
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2008/3/24


雨の宮古墳群 Amenomiya-kofungun 

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 雨の宮古墳群(あめのみやこふんぐん)は、石川県鹿島郡中能登町にある眉丈山(びじょうざん)の山頂を中心にして造られた、三六基の古墳からなる古墳群である。
 標高188mの山の尾根筋に沿って造られており、古墳時代にあたる四世紀中頃から五世紀のはじめのものと見られている。
 どれも、古墳が作られた時代に能登地方を治めていた豪族のものと考えられている。
 山頂の雷ヶ峰には墳丘長64mを誇る一号墳があり、前方後方墳としては県内はもとより北陸地方でも最大規模のものである。また、すぐ近くには前方後円墳である二号墳がある。
 その一号墳からは神獣鏡(しんじゅうきょう)や石釧(いしくしろ)、車輪石(しゃりんせき)等の装飾品や玉類・短甲・刀剣類が出土しており、重要な文化財であることから昭和五七(1982)年に国指定史跡に指定された。
 平成四年から五年に渡り発掘調査が実施され、同時に葺き石などを施して整備された事で周囲の見晴らしも良く、山頂付近からの鹿島の町並みも楽しめる。
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