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2008/3/25


注連飾り(東北地方) Shimekazari(Touhoku-Chihou ) Shimekazari (Tohoku region)

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 注連飾り(しめかざり)とは、神社などに用いられている神域と外界とを隔てるための注連縄(しめなわ)がもとになっているといわれている。
 新年を迎えるにあたり玄関先などに吊るされ、外部から災いや厄が家の中に入るのを防ぐ魔除け・結界として、また新年に向け不老長寿や五穀豊穣などの様々な願いを込めて飾られてきた。
 東北地方の注連飾りには、紙垂(しで)や、橙(だいだい)などと一緒に、餅・昆布・松葉・魚などの食べ物を飾る風習が多く残されているという。
 昆布には「よろこんぶ」などのめでたい意味、魚は一家の無病息災を祈るほか、家格や大漁を誇示する意味などが込めれていることもあったという。
 このように食べ物を飾りつけることで、旧年中の豊作への感謝と、また新年も実り多き年であるよう、五穀豊穣を願う気持ちが込められているのかもしれない。
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2008/1/8


旧取手宿本陣 Kyu-toridejuku-honjin Old Toridejuku Honjin

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 貞享四(1687)年に、水戸街道を通る大名などが利用する宿である本陣として取手宿の名主である染野家が選ばれた。それが旧取手宿本陣(きゅうとりでじゅくほんじん)である。
 寛政六(1794)年に一度焼失、翌年に立て直されたものが現在の母屋である。
 寄棟茅葺、桁行19m、梁間13・3mの大型の民家だが、式台玄関の上部に入母屋破風を造っており、重厚感を出している。
 内部は、宿泊を行う本陣部分と住宅部分が分かれており、三間続きの間や、書院造りの上段の間等があり、風格を重んじた造りとなっている。
 敷地内には、第9代水戸藩主徳川斉昭が天保一一(1840)年に水戸に戻る途中の利根川での船で詠んだ唄「指して行 さほのとりての渡し舟 おもふかたへは とくつきにけり」と、石に刻んだ歌碑が残っている。この歌碑は、後に江戸屋敷から届けられたもので、水戸徳川家と染野家のゆかりを示している。
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2007/11/29


久峰うずら車 Hisamine-uzura-guruma Hisamine Quail Toy Car

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 久峰うずら車(ひさみねうずらぐるま)は宮崎県宮崎市に伝わる郷土玩具である。
 江戸時代頃よりこの地方では、鶉(うずら)は非常に身近な鳥で、愛がん動物として親しまれていた。うずらを捕らえその泣き声を楽しむ風習もあった。
 日本のうずらは春から夏にかけて北海道や東北地方で繁殖し秋から冬は温暖な四国や九州に渡る。
 うずら車はこのうずらをモデルに子どもたちの玩具として作られたものである。うずら車の材料にはタラの木が使われ、車の軸の部分には竹が使用される。そして、うずらの顔にあたる部分には子どもたちの安全と幸せを願い「の」の字が描かれている。
 古くは久峰観音や鬼子母神社の祭礼で売られていた。現在では、各家庭の玄関に置かれて親しまれている。
 宮崎市には法華嶽薬師寺のうずら車と久峰観音のうずら車があり、久峰うずら車は女性的な情緒をもつうずら車である。
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2007/11/14


注連縄 Shimenawa 

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 神域や祭場などの聖域と外界とを隔てる「注連縄(しめなわ)」は、「標縄」「七五三縄」とも表記され、神社の周りや御神体を囲む様に張られたもので、紙垂(しで)を垂らして用いられる事が多い。
 正月などに玄関先に飾られる「注連飾り(しめかざり)」も、注連縄の形態の一つで、人間に災いをもたらすという禍神(まがかみ)を「しめだす」もの。中国で死霊が入り込まない様に、水で清め連ねて張った縄の「注連(ちゅうれん)」が伝わったとされる。
 起源としては古代から伝えられていて、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)から引き出された時に、二度と入れない様にフトダマが注連縄に当たる「尻久米縄(しりくめなわ)」で岩戸を塞いだという事が云われており、古くからの風習として行われていた。
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2007/10/23


宝鏡寺 Houkyou-ji 

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 宝鏡寺(ほうきょうじ)は、京都府京都市上京区寺之内通堀川にある臨済宗単立の門跡尼寺である。本尊は、聖観世音菩薩。
 応安年間(1368~1374)に光厳天皇皇女・華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼が開山した臨済宗の門跡尼寺で、中世京洛に栄えた尼五山の一つとされる。
 寛永二一(1644)年、後水尾天皇の娘が入寺してから紫衣を勅許され、以後歴代皇女が住持を勤める慣わしとなった。
 天明八(1788)年の大火では類焼したが、書院・本堂・大門・阿弥陀堂・玄関・使者の間の六棟が復興され、現在は市の有形文化財に指定されている。
 孝明天皇遺愛の人形をはじめ、多くの人形を所蔵しており、人形の寺として有名で、普段は非公開であるが、春秋には人形展が開かれて一般に公開されている。
 宝鏡寺は、人形寺として高名な由緒ある古刹である。
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2007/9/19


密貿易屋敷 Mitsu-boueki-yashiki 

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 密貿易屋敷(みつぼうえきやしき)とは、鹿児島県南さつま市坊津にある森吉兵衛屋敷の事である。
 リアス式海岸にある坊津は琉球・南方諸国に近く、古くから日本三津といわれた中国との玄関口として栄えた貿易港であった。
 江戸時代に入ると、幕府の鎖国政策により大陸との貿易は長崎の出島ひとつとなった。
 しかしこれは表向きのことで、そのあともこの港を本拠地として、薩摩藩は大陸との密貿易を続けたのである。
 屋敷は、万延元(1860)年、三代・森吉兵衛が建て、五代・吉兵衛まで住んでいたもの。
 屋敷内には隠密に貿易を行うため、中二階・覗き窓・隠し部屋など、構造上の様々な工夫がなされている。
 密貿易屋敷は、江戸の昔が偲ばれる史跡である。
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2007/9/13


瑞巌寺 御成門、中門 Zuigaan-ji Onari-mon,Naka-mon The Onari-mon and Naka-mon Gates at Zuiganji Temple

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 奥州随一の禅寺・瑞巌寺(ずいがんじ)は天長五(828)年、慈覚大師円仁によって開創され、伊達家の菩提寺として知られる。正式名は「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、別名松島寺ともいう。
 現在の建物は、慶長一四(1609)年、名工一三〇人を集め、政宗が五年の歳月をかけて建立したものである。
 本堂と御成玄関・回廊・庫裡は国宝に、御成門・中門・太鼓塀は国の重要文化財に指定されている。
 御成門は、入母屋造本瓦葺の薬医門で、重厚な趣をみせている。
 御成門の右側にある中門は本堂の前にあり、四脚門で切妻造、こけら葺きで、壁がなく骨組みが露出している。中門両側には、政宗が朝鮮出兵の際、持ち帰って植えたとされる紅白の臥竜梅(がりゅうばい)が植えられている。臥せた龍に似ていることから臥龍梅と名付けられ、四月中旬が身頃となる。
 御成門・中門は対照的な趣向となっており、土壁は白壁で、中空の太鼓塀になっている。
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2007/9/7


箱泉寺 Sousen-ji 

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 箱泉寺(そうせんじ)は、宮城県石巻市河南町にある古刹である。
 伝教大師の弟子の慈覚大師が貞観年間(859~877)に開いたとされる。
 天正三(1575)年に俊光と号する僧が中興に努め、真言宗にと改められた。
 寺は旭山の北側の斜面に位置し、周りは森で囲まれている。参道の石段を登ると、なんとも年代を感じさせる四脚門の山門が構えている。山門をくぐると、前方に本堂があり、本堂の右側は渡り廊下となり、玄関、庫裏へと続いていく。
 本堂の前には大杉と平成九(1997)年に根方山より勧請され、多くの人の願いをかなえてくれるといわれる千願石・万願石がある。
 この地は清水が豊富に湧き出る里としても知られており、境内にある独鈷水(おこうずい)は、慈覚大師ゆかりの水で、寺の名前の由来になっている。
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