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2008/8/1


鎌田流棒の手 Kamata-ryuu-bou-no-te Kamata-ryu Bo-no-te

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 天正の時代、岩崎城主丹羽勘助氏次(にわかんすけうじつぐ)が領民達の武術の指南役として鎌田兵太寛信(かまたへいたひろのぶ)を家臣として迎えた。寛信は武術の達人で特に棒術を得意としていた浪人であった。
 後に「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」においては勇戦した寛信であったが、戦後は戦没者の供養のため仏門に入り諸国を行脚した。
 郷里尾張を訪れた際、村民の懇願で、当地に鎌田流の道場を開設。やがて「鎌田流棒の手(かまたりゅうぼうのて)」は三河地方にも広まっていった。
 その後、農民の戦力であった棒の手は長い歴史を経て、農村の若者が演ずる農民芸能として神社の祭礼に奉納される行事となっていった。
 独特の掛け声で一・一メートルの棒を操る勇壮な姿は見物である。県の無形文化財に指定され、次の代に伝えるべく熱意を持つ人々によって今もなお技が磨かれ受け継がれている。
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2008/2/28


城下町 大聖寺 Joukamachi Daisho-ji Castle town,Daishoji

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 石川県加賀市の大聖寺(だいしょうじ)は、加賀百万石の支藩、大聖寺藩の城下町として栄えてきた歴史と伝統文化の息づく町だ。
 江戸時代からの街並みをそのままとどめ、しっとりと落ち着いた雰囲気を漂わせている。錦城山城址のふもとには禅宗、日蓮宗などの古刹が立ち並び、年間を通して史跡めぐりを楽しむ人々が絶えない。
 特に実性院(じっしょういん)は、5月に咲く藤の花の全国的な名所としても知られている。金箔をあしらった障子画も見事だ。また、大聖寺3代藩主の藩邸跡の一部に当たる江沼神社境内にある「長流亭」は、兼六園を模して作庭されたとされ、書院や茶室など、隅々にまで凝らされた意匠が興味深い。この庭園は、国の重要文化財に指定されているという。 
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2008/1/28


揖宿神社 Ibusuki-jinja Ibusuki Shrine

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 揖宿神社(いぶすきじんじゃ)は、鹿児島県指宿市東方にある神社である。祭神は大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)他八柱。
 社記によれば、慶雲三(706)年、天智天皇の由緒の地として葛城宮が創建されたという。
 貞観一六(874)年、現在の開聞岳の大噴火により遷宮し、枚聞神社を勧請して開聞新宮を名乗った。明治維新に際し揖宿神社と改称され、現在に至る。
 指宿郷の総氏神として地方開拓の祖神、航海安全、諸業繁栄の守護神として崇敬され続けてきた。
 現在の社殿は弘化四(1847)年、島津斉興(しまづなりおき)によって建てられたものである。
 境内には推定樹齢七〇〇年以上といわれる楠木の大樹八株があり、全体が「揖宿の社叢(しゃそう)」として県指定の天然記念物となっている。
 揖宿神社は、薩摩藩代々の藩主から篤く尊崇されてきた、古くから知られた神社である。
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2007/11/27


柳川まり Yanagawa-mari Yanagawa Handballs

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 柳川まりは、福岡県柳川市にて造られている伝統的な鞠である。福岡県指定特産民芸品とされる。
 柳川地方のひな壇には、初節句に女子に贈られた「さげもん」と呼ばれる独特の風習がある。
 縁起のよい鶴などの手作りの縫いぐるみと、鮮やかな七色の糸で巻いた大まりを下げ輪の中央に、小まりと縫いぐるみを交互に下げ輪に吊り下げたものの事である。
 この「さげもん」に使われる鞠こそが、柳川まりである。
 丸くした木綿の上に綿をかぶせ、しつけ糸で形を整え、その上の草木染めした木綿糸や現代的色調のリリアンを巻いて作りあげる。
 旧柳川藩主の立花邸の腰元たちが作っていたのが町家に広まったと言われている。
 柳川まりは、城下町としての手まり文化を今に残す、貴重な伝統民芸品である。
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2007/10/24


献上博多織 Kenjou-hakataori Kenjo Hakata Textiles

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 博多織物は、鎌倉時代に端を発する七〇〇年の歴史を持つ伝統工芸品。
 「献上博多織」は、博多織を代表する柄だ。江戸時代に筑前藩主・黒田長政が幕府に博多織を毎年献上した際に用いられた柄を総称してこう呼ばれ、現在も受け継がれている。献上柄は3つの柄で構成され、仏具として使用する「独鈷」と「華皿」をモチーフにそれぞれを意匠化した柄と縞柄が特徴だ。
 博多織は固く締まって、しかもしなやかな地合が持ち味。織り機による伝統芸能は貴重であるが、現在後継者問題が懸念されている。  
 献上博多織の第一人者の小川規三郎氏は平成15年に「献上博多織」の重要無形文化財の保持者に認定。九州産業大学の芸術工芸学科の客員教授を務めるほか、「博多織工業組合」に属し、全国のシンポジウムや講演会のパネリストとして伝統芸能の再生と発展に力を注いでいるという。
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2007/10/12


福山城 Fukuyama-jyou Fukuyama Castle

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 福山城は、広島県福山市丸之内にあった城である。日本100名城に選定。国指定史跡である。
 元和五(1619)年、徳川家康のいとこである初代福山藩主、水野勝成が、徳川幕府からの命で西国鎮護の拠点として築城したのが福山城である。
 以後福山藩の藩主は、水野氏、松平氏、阿部氏と続き、明治維新に至るまで藩主の居城であった。
 廃藩置県後、明治六(1873)年に廃城となった。
 国宝であった天守と御湯殿は、昭和二〇(1945)年、米軍の空襲により焼失した。昭和四一(1966)年、天守、月見櫓、御湯殿が同時に再建されている。
 現存する伏見櫓、筋鉄御門(すじがねごもん)は、国の重要文化財に指定されている。
 福山城は、江戸時代建築の、最も完成された形の名城として、今にその姿を残している。
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2007/10/11


龍華山等覚寺 Ryuuge-zan-toukaku-ji 

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 伊達氏の城下町として発展してきた宇和島。JR宇和島駅の南側を流れる辰野川を挟むようにして、神社仏閣が建ち並ぶ。川辺の路地を上流へしばらく進むと、野川地区の入り口に龍華山等覚寺(りゅうげざんとうかくじ)が見えてくる。敷地には荘厳な墓石が連なる。ここは伊達家の菩提寺として知られる。
 等覚寺は元和四(1618)年、生母の菩提を弔うため初代藩主・伊達秀宗(だてひでむね)が建立。当時は白雲山龍泉寺と号したが、万治元(1658)年に秀宗の墓所となってからは浄妙山等覚寺と改め、さらに安永七(1778)年に山号を龍華山と改称して現在に至る。
 本堂と庫裏は、昭和二〇(1945)年の戦災により焼失したが、鐘楼のある山門だけは残り、わずかに当時を偲ばせる。
 墓には、初代~四代、六代、八代の各藩主のほかに、藩主夫人や殉死した藩士まで葬られている。墓からは宇和島城を望むことができる。
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2007/9/14


行縢神社 Mukabaki-jinja Mukabaki Shrine

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 行縢神社(むかばきじんじゃ)は、行縢山の南東にあり、養老二(718)年に創建された。紀州の熊野大社の分霊が祀られ、祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)で行縢嶽三所大権現と名乗り、日向の代々藩主の崇拝が厚かった。
 行縢山は宮崎県の北部にあり、標高八三一メートルの山である。遠くから見ると屏風ような形をしている岩壁が見事な山である。
 日本武尊が熊襲征討の折、山の形が行縢(むかばき)に似ていると仰せられ、行縢山の名がついたと伝えられている。行縢とは、毛皮で作られた、腰から脚にかけて着用するものである。
 広い神域は樹木におおわれ、その間に本殿がひっそりと建っている。境内から行縢山の登山口が伸びている。
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