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2008/1/17


会津塗 Aizu-nuri 

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 会津塗(あいづぬり)は福島県会津若松市を中心に生産される漆器で、椀、重箱、茶托(ちゃたく)、盆などがある。昭和五〇(1975)年、通産大臣(現経済産業大臣)により伝統的工芸品に指定された。
 安土桃山時代に、豊臣秀吉の命を受けて会津の領主となった蒲生氏郷(がもううじさと)が、産業として奨励したことに始まる。近江の漆器職人を呼び寄せ、その技法を会津に広めた結果、漆器は会津の一大産業となった。
 幕末の戊辰戦争で壊滅的な打撃を受けるも、明治時代中期には再び活気を取り戻し、会津は日本有数の漆器産地として、今もその名をとどろかせている。
 工程によって、それぞれの専門職人が分業で行うのが特徴。そのため、より高い品質と能率的な生産を実現している。椀などロクロを使用して丸物を作る木地師(きじし)、重箱などカンナを駆使して板物を作る惣輪師(そうわし)、それらに豪華な飾りを施す蒔絵師(まきえし)・漆絵師(うるしえし)・沈金師(ちんきんし)がいる。縁起の良い図柄で人気が高い。
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2007/8/10


岩手 榊山稲荷神社 Iwate sakakiyama-inari-jinjya 

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 岩手県盛岡市中心部の北側に位置する北山にある神社。
 起こりは江戸時代、盛岡城内に置かれた3つの神社のひとつとして創建された。榊山稲荷神社は本丸西側の曲輪(くるわ)に祭られたが、戊辰戦争、明治維新によりその歴史を閉じなければならなくなった。
 社伝によると、ある夜初代宮司、荒川清次郎氏が榊山稲荷より「再興せよ」とのお告げを受けて、私財を投げ打って昭和五(1930)年に再興したとある。
 荒川氏は、旧藩主南部氏の所有であった北山の地を譲り受け、お宮を建てた。現在は「盛岡開運神社」の別名を持ち、地元民に親しまれている。しだれ桜が参道を飾り、春には花見がてら散策を楽しむ人々でにぎわう。
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2007/7/19


会津白虎まつり Aizu-byakko-matsuri Aizu Autumn Festival

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 会津白虎まつり(あいずびゃっこまつり)は、福島県会津若松市にて行われる祭りである。
 以前は会津秋まつりと言う名だったが、会津と言えば「白虎隊」として全国的に知られており、さの知名度を生かし、インパクトある名称にと改称したもの。
 深い歴史の残る会津若松に秋を告げる伝統の祭りで、県内外から多くの観光客が訪れる。
 市民総勢1000人が灯篭を揺らし市内を練り歩く幻想的な風景で祭りのオープニングを飾り、鶴ヶ城跡で「先人供養祭」が行われ、白虎まつりのメイン「会津白虎行列」がスタートする。
 市民が扮する白虎隊や松平公といった会津藩縁の武者行列は約500名にものぼり、まさに圧巻。
 夜には「会津磐梯山踊り」も行われ、祭りを一層盛り上げる。
 会津白虎まつりは、戊辰戦争を偲ぶ、会津の秋の一大イベントである。
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2007/6/12


法源寺 Hougen-ji 

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 法源寺は、520年余の歴史を誇る古刹。松前城の近く、北海道松前郡松前町に所在する。
 開創は室町時代の文明元(1479)年。北海道曹洞宗の最古の寺院である。若狭国(現福井県)の禅僧・随芳が奥尻島に草庵を開いたことから始まる古寺で、延徳二(1490)年に奥尻よりこの地に移転した。
 幕末の戊辰戦争で本堂や庫裏は焼失したが、山門と経堂は難を逃れた。山門は安土桃山時代前期の作と言われ、平成五年に国の重要文化財に指定されている。道内最古の建造物のひとつである。
 また、当寺には松前を代表する画人、蛎崎波響(かきざきはきょう)の墓もある。
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2007/2/26


小峰城 Komine-jyou 

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 盛岡城、会津若松城とともに東北三名城に挙げられる白河小峰城は、源頼朝が奥州・藤原氏を滅ぼした時に従軍した結城朝光を祖先とする結城親朝が1340年、小峰ヶ岡に築城したのが始まり。
 戦国時代まで結城氏が領有し、江戸時代になり丹羽長重が初代藩主として入城。4年の歳月をかけ築城した。その後、七家(丹羽、榊原、本多、奥平松平、結城松平、久松松平、阿部)21人の藩主によって統治され、その中には飢饉の時に餓死者を出さなかった徳川吉宗の孫・松平定信もいる。最終的には1867年に二本松藩主の丹羽家が管理していたが、戊辰戦争において、白河藩は藩主がいないまま、新政府に対抗して奥羽列藩同盟に加入し抗戦。 
 1881年4月〜7月の約100日、新政府軍との熾烈な戦いが繰り広げられ、白河城は落城し焼失した。永らく石垣だけの状態が続いていたが、1991年に三重櫓という、実質的に天守の役割を果たす建物を正確に復元。1994年には、前御門も復元している。
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鶴ヶ城 Tsuruga-jyou 

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 会津若松市のシンボル「鶴ヶ城 」は、戦国時代に葦名、伊達、蒲生、上杉、保科、松平と数多くの大名が治めた歴史があり、幕末の戊辰戦争では旧幕府派として最後まで抵抗した為、会津が激しい戦場となり、白虎隊の悲しい出来事も起こった。現在は、本丸を鶴ヶ城博物館として貴重な資料を展示公開しており、石垣や桜が美しい公園が城の周りに広がる。
 鶴ヶ城は1384年葦名直盛が造った東黒川館が始まりで、その後、会津領主だった葦名盛氏が改築し、現在の城郭の原型を築いた。(当時は黒川城)1593年には蒲生氏郷が本格的な天守閣を築き、名前も「鶴ヶ城」と改められた。
 会津地方を大地震が襲った1611年に、石垣や天守閣は大きく傾いた事があったが、その天守閣を改修し、西出丸・北出丸といった出丸を築き、ほぼ現在の姿の鶴ヶ城が出来た。この時に積まれた石垣は四百年経た今でも朽ちる事なく往時の姿を忍ばせている。
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2007/2/20


横手城 Yokote-jyou 

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 横手城は、秋田県横手市城山町にある山城である。石垣の代わりに斜面に韮を植えていたため、韮城とも呼ばれた。
 1554年頃、小野寺景道が築城し、関ヶ原の合戦後の1602年、佐竹義宣が入部した。一国一城令により横手城は廃城する所だったが、義宣はうまく立ち回り、特別に存続が許された。
 戊辰戦争の際、佐竹氏は孤軍官軍側につき、1868年8月、落城し、以後城は廃墟となった。
 明治42(1909)年、横手公園となり、昭和40(1965)年、郷土資料館と展望台として模擬天守が建築された。
 模擬天守があるのは二の丸だった所で、本丸跡には秋田神社がある。春は桜の名所であり、横手の人は皆ここで花見をするという。
 横手城は、むしろ近年になってから町の象徴となった、地元の人々に親しまれている城である。
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鶴ヶ丘城 Tsurugaoka-jyo 

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 鶴ヶ丘城は、山形県鶴岡市馬場町にあった城である。
 大宝寺氏が築いた大宝寺城が、鶴ヶ岡城の前身といわれる。
 天正16(1588)年、上杉景勝の家臣により攻略され、大宝寺城が要衝の地にある事に着目した景勝の重臣・直江兼続が、修築・拡張した。
 その後、関ヶ原の合戦の功によって最上義光に加増され、慶長8(1603)年、全面改修し、鶴ヶ岡城と改められる。
 元和8(1622)年、最上氏が改易されると領地は四分され、以後譜代大名が配置された。
 戊辰戦争の際には佐幕派として戦ったが敗戦・開城し、明治9(1876)年、廃城となった。
 現在は本丸・二ノ丸が鶴岡公園となっており、本丸跡には荘内神社・護国神社が祀られている。
 鶴ヶ丘城は要害であり、歴史に翻弄された激戦の地である。
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