NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/2


石手寺 三重塔 Ishite-ji Sanjuu-no-tou 

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 四国霊場でも随一の寺宝、文化財を有する名刹と言われる石手寺(いしてじ)は、真言宗の寺院で、四国霊場の第五一番札所。神亀五(728)年に聖武天皇の勅願により創建されたと伝えられる。
 もともとは安養寺という名前だったが、寛平四(892)年、城主河野家の子息が左手が開かないと言い出し、安養寺の住職に祈祷を頼み左手が開いたとき、手から「衛門(えもん)三郎再来」と書かれた小石が転がり落ちたため、石手寺と改めたと言われている。
 境内にある三重塔は国の重要文化財に指定されている。この三重塔のつくりは三間三重と呼ばれる形式で、屋根は本瓦葺になっている。鎌倉時代に立てられた三重塔としては愛媛県内唯一のものである。石手寺の境内は曼荼羅に作られ、三重塔を中心に右回り、左回りしながらお参りをすれば自然と心が和み、温かい心が全身によみがえってくると言われている。
 立派な堂宇が立ち並び、道後温泉の東にあたることから境内は参拝の人が絶えない。
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2008/8/22


一乗寺 三重塔 Ichijyou-ji Sanjuu-no-tou 

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 一乗寺(いちじょうじ)は、兵庫県加西市坂本町にある天台宗の寺である。本尊は、聖観音像。西国三十三箇所第26番、播磨西国三十三箇所第33番札所とされる。
 白雉元(650)年、法道仙人が金銅の聖観音を携えて渡来し、堂宇を建てたのが創建とされる。
 三重塔(さんじゅうのとう)は、平安時代の承安元(1171)年の建築とされ、各重とも方三間で、各重の落ちは上重ほど大きく、軒高の差と軒出は上重ほど小さく、古塔の姿をよくとどめており、国宝に指定されている。
 高さは21.8mあり、本瓦葺で高欄のない縁をめぐらし、中央間桟唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも蟇股で、水煙は唐草文様になっている。
 一乗寺の三重塔は、古代から中世への移行期の技法のあり方をうかがい知る事が出来る、長い歴史を誇る建築物である。
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2008/7/9


金剛證寺 Kongoushou-ji 

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 金剛證寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市の朝熊山(あさまやま)南峰の経ヶ峯に位置する古刹で、御本尊は日本三大虚空蔵菩薩の一つ、福威智満(ふくいちまん)虚空蔵大菩薩である。
 伊勢神宮における北東の方角である鬼門を守る寺としても知られている。
 その創建は、第二九代欽明天皇の御代(509~571)、暁台(きょうたい)上人によって明星堂が開かれたのが始まりとされる。
 平安時代の天長二(825)年には弘法大師によって真言密教道場として堂宇が建立され、密教修業の大道場として隆盛を誇った。
 その後、衰退を見せるも応永年間(1248~1394)に仏地禅師により再興され、以来禅寺に改められて今に至っている。
 現在の本堂は、岡山城主であった池田輝政の寄進により、慶長一四(1609)年に再建されたもので、その一重寄棟造の堂々たる巨宇は国の重要文化財に指定されている。
 境内には約一万柱が立ち並ぶ供養卒塔婆、その卒塔婆道への入り口に立つ極楽門などがある。
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2008/7/1


海岸寺 Kaiganji 

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 海岸寺(かいがんじ)は、長野県との県境に位置する山梨県北杜市にある臨済宗の名刹である。
 養老元(717)年、行基が現在の地である津金山の南斜面に庵を構えたのが始まりとされる。
 海抜約1000mに位置し、天候によっては眼下に雲海を見ることができることから海岸寺という名が付いたといわれている。
 寛治年間(1087~1094)には新羅三郎義光が、京より玄観律師を同寺に迎え、国家鎮護の大道場として隆盛するも、天正一〇(1582)年の織田信長による甲斐侵攻の際、兵火によって堂宇の多くを焼失した。
 現在の堂宇の多くは中興の祖である即應宗智和尚により、寛文六(1666)年に再建されたものである。
 境内には江戸時代の石仏師が一〇年以上の歳月をかけて彫り上げた百体あまりの石仏があり、これを目当てに訪れる人も多い。
 四季折々の風景と共に、様々な表情を見せる石仏をゆっくりと巡ってみるのも良いかもしれない。
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2008/6/18


愛宕念仏寺 Odagi-nenbutsu-ji 

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 延喜一一(911)年に、醍醐天皇の勅願により比叡山の僧・千観(せんかん)により中興されたと伝えられているのが「愛宕念仏寺(おだぎねんぶつじ)」である。ここでは愛宕を「あたご」ではなく「おたぎ」と読む。
 奈良時代後期、聖武天皇の娘の称徳天皇がここに愛宕寺を建てたが、平安時代初期、鴨川の洪水で流され、廃寺となった。その後復興を命じられたのが千観だった。
 江戸時代中期の建物である朱塗りの仁王門は、鎌倉時代に造られたとされる阿・吽の仁王像が奉られている。また、重要文化財である本堂は、鎌倉中期の再建で、大正一一(1922)年に堂宇の保存のため、嵯峨の地へ移築された。本尊は「厄除千手観音」で、平安時代より厄除けの寺として厚く信仰されてきた。
 また、境内には石造り千二百羅漢といわれる凄まじい数の地蔵様がある。昭和五六(1981)年、寺の復興を祈願し、賛同した一般の参拝者が作り上げたもので、子供を抱いた地蔵様、酒を持った地蔵様、楽器を吹く地蔵様など、表情豊かに並んでいる。
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2008/5/26


高幡不動尊金剛寺 Takahatafudouson-Kongou-ji 

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 高幡不動尊金剛寺(たかはたふどうそんこんごうじ)は、関東三大不動のひとつと数えられる、高幡不動の通称名で知られる真言宗の名刹である。
 創建時期は古く、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅命を受けて不動明王を安置したのがはじまりとされている。
 建武二(1337)年に大風で倒壊した堂宇を、康永元(1342)年に儀海上人によって山の麓に移し変えられたのが現在の不動堂である。稀に見る古い文化財として、境内の仁王門と同じく国の重要文化財に指定されている。
 室町時代になると、鎌倉公方や上杉氏などの有力武将の帰依を受け、寺は隆盛した。その頃、関東で起きた戦乱の度に不動明王が全身に汗を流したという伝説から「汗かき不動尊」の名がついたという。
 金剛寺はまた、日野市生まれの新選組副長・土方歳三の菩提寺としても知られており、境内には歳三の像が訪れる人々を迎えるように建っている。
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2007/12/11


青梅 天寧寺 Oume Tennei-ji 

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 青梅市根ヶ布の天寧寺(てんねいじ)は、曹洞宗の寺院で、北陸の永平寺にならった回廊式の伽藍配置である。
 天慶年間(938~946)平将門によって開創された。後に兵火にあい、堂宇は焼失、廃寺となり、その後青梅周辺を治めていた勝沼城主・三田氏宗が、文亀年間(1501~1504)に開基した。江戸時代に入ると、末寺三七を数える大きな寺へと成長した。
 山門は宝暦九(1759)年の建築で、左右には二天像の多聞天と増長天の像がある。
 その山門を入って左側にある鐘楼の鐘は、大永元(1521)年、氏宗の子である政定が奉納した大梵鐘で、三田氏の貴重な金石文とされ、国の重要美術品として知られる。
 本堂は宝永四(1707)年に造られたもので、中央に祀ってある木造の釈迦如来坐像は、青梅市指定の有形文化財となっている。
 また、本堂の裏側には霞ヶ池があり、かわせみなどの楽園として知られる。この池が源となり霞川が始まり、入間川、荒川、そして東京湾に注がれている。
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2007/12/3


高知 清滝寺 Kouchi Kiyotaki-ji 

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 四国霊場第35番札所である清滝寺(きよたきじ)は、行基菩薩がこの地を訪れて薬師如来を刻み、本堂として堂宇を建立、景山密院・釈本寺と名付けたのが始まりとされる。
 その後、弘法大師が弘仁年間(810~824)に修法をおこない、満願の日、金剛杖で突くと清水が湧き出て滝になったため、寺号を改めて霊場にしたといわれる。
 この泉はいまも湧き続け、麓の灌漑に役立てられている。
 厄よけ祈願でも知られ、本堂前にある高さ約15メートルの薬師如来像の中をくぐると御利益を授かるといわれている。
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