NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/25


徳島 大麻比古神社 Tokushima Ooasahiko-jinja 

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 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は徳島県鳴門市の大麻山(おおあさやま)の山麓に鎮座する神社である。古来より阿波の国でも格式の高い一宮として栄えてきた。
 神社の起源は阿波の国を治めていた天富命(あめのとみのみこと)が先祖の天太玉命(あめのふとだまのみこと)、大麻比古神を守護神として祀ったのがはじまりと伝えられている。天太玉命は第一代神武天皇の時代(紀元前585年ごろ)、阿波国で麻の播殖と開拓に努めた。
 神社周辺は県指定自然公園に指定されており美しい樹木に包まれている。参道の長さは1キロにも及び、境内には樹齢1000年を超える楠の御神木がそびえている。本殿は重厚な雰囲気を漂わせて、この社が由緒ある神社であることを物語っている。
 毎年正月の初詣には三が日で20万人以上の人々が参拝に訪れる地元でも有名な神社である。
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2008/7/14


黒石よされ Kuroishi-yosare Kuroishi Yosare Festival

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 青森県黒石市でおこなわれる最大の祭りが、八月一五、一六日におこなわれる「黒石よされ(くろいしよされ)」である。徳島県徳島市の阿波踊り、岐阜県八幡町の郡上踊りとともに、日本三大流し踊りに数えられている。
 市内の商店街を中心に「トコマンポ」と呼ばれる、編み笠に雀(すずめ)の柄の浴衣を着た約三千人の踊り子が、一斉に踊りを繰り広げる祭りである。稲穂が揺れて雀を追い払うという踊りの振りから、浴衣の絵柄が考案された。
 「エッチャホー、エッチャホー」と独特の掛け声と囃子とともに、廻り踊り、組踊り、流し踊りの三つの踊りが披露される。時折円を描く廻り踊りは、見物客を巻き込んでの乱舞となる。
 黒石よされは、山岳宗教が盛んだった六〇〇年もの昔、盆踊りの時の男女の恋の掛け合い唄であったといわれている。
 その後、江戸時代の天明年間(1781~1788)、家老であった境形右衛門(さかいぎょうえもん)が城下町に人を集めるために力注いだとされ、現在に受け継がれている。
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2008/6/26


徳島城 Tokushima-jou 

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 徳島城は徳島市にかつてあった城であり、あの阿波踊りの誕生のきっかけになった城である。
 天正一四(1586)年、豊臣秀吉の四国平定で功績のあった蜂須賀家政が小早川隆景や長宗我部元親らの援助により一年半で築城した城である。家政は築城に従事した大工や城下町の人々に酒を振舞い、武士の同席を禁じたので、人々は歓喜し遠慮なく二日間踊りあかしたという、これが、阿波踊りの始まりと言われている。
 蜂須賀家は明治の廃藩置県までこの地を治めていた。明治に入ると城は解体され、鷲の門だけは残されたが、太平洋戦争の空襲でそれも焼失してしまった。
 現在、徳島城跡は徳島中央公園となり、博物館が建っている。博物館の中には徳島城の模型が展示されている。また、平成元年には徳島市制百周年を記念して鷲の門も復元された。
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日和佐城(渭津城) Hiwasa-jou(Inotsu-jou) 

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 日和佐城(ひわさじょう)、別名、渭津城(いのつじょう)は徳島県の日和佐湾に突き出ている半島の先端の標高65メートルの丘に設けられた城である。
 築城は天正時代の初め頃、この地の豪族、日和佐肥前守が阿波制覇をもくろむ土佐の長宗我部勢に対する防御のために築かれたとされている。東方は絶壁となり、北方の山麓は日和佐川が流れ、西方は入江に接し、三方を海川の水面に囲まれた要害の地としては最適のものであった。しかし、城に関しての文献はほとんどなく、地形を匠に利用した城という以外は、その規模も形状もあまり判明していない。また、過去には石垣の跡が点在していたというが、現在は見当たらない。
 現在、城跡には観光のために作られた三層から成る白亜の模擬天守閣が設けられており、頂上からは日和佐湾を一望できる。そのため、訪れる観光客も多い。
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2008/6/25


川島城(蜂須賀城) Kawashima-jou(Hachisuga-jou) 

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 川島城(かわしまじょう)は徳島県吉野川市を流れる吉野川に突き出た岩の鼻と呼ばれる絶壁に築かれた城である。要害堅固な城として有名であった。
 室町末期、領主の細川氏を凌ぐ勢いであった三好氏の家臣、川島兵衛之進が築いたために川島城と名づけられた。
 天正一三(1585)年、豊臣秀吉に阿波の国を与えられた蜂須賀家政は、阿波の国の防御として家老の林能勝を城主とし、警護に当たらせた。そのため蜂須賀城とも言われている。その後、江戸時代になり元和元(1615)年には、一国一城令が定められ、川島城は廃城となった。
 現在、川島城跡には川島万葉植物園が建てられている。また、本丸跡である岩の鼻には展望台が設けられ、二の丸跡には川島神社が建立されている。その東側には観光用に三層から成る模擬天守閣がそびえている。
 岩の鼻の展望台から吉野川を眺めると、その断崖の高さに驚かされ、この城がいかに堅固な城であったかを教えてくれる。
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2008/5/22


洲本城(三熊城) Sumoto-jou(Mikuma-jou) 

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 兵庫県洲本市の「洲本城(すもとじょう)」は、大永六(1526)年に安宅治興が三熊山に築城した。
 天正九(1581)年、清康に受け継がれていた頃に、織田信長の命による淡路討伐で羽柴秀吉の軍門に降り開城した。天正一〇(1582)年に仙石秀久が入り、天正一三(1585)年には脇坂安治が城主となる。その際、大修築が行われた。慶長一四(1609)年に安治は伊予大洲へと移封となり、慶長一五(1610)年に池田忠雄が六万三千石で入封した。一時廃城となり忠雄は由良成山城に居城する事になる。そして城は阿波徳島の蜂須賀至鎮の所領となる。寛永一二(1635)年、交通の便の悪かった由良城から拠点を洲本城へ移した。四年をかけて城下町ごとの移転だった為、「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれている。城代は稲田氏が代々務めた。
 現在、昭和三(1928)年に築造された模擬天守があり、江戸時代のものを復元したものではないが、模擬天守としては日本最古のものである。
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2008/5/19


阿波安染 Awayasu-zome 

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 阿波安染(あわやすぞめ)は、大阪府東大阪市にて伝えられる工芸品である。
 江戸末期に、徳島県鴨島の藍農家の次男に生まれた安兵衛が、成人してのち、大阪から仕入れに来ていた藍問屋の紹介で大阪の中河内盾津にあった染物店に奉公し、藍染めの技術を修得した。
 慶応元(1865)年、厳しい修行の末に一人前の藍職人となった安兵衛は、大阪市中河内郡天王寺村に暖簾をかかげ、実家から取り寄せた原料をふんだんに用いて藍染めを始めた。
 その丹念な印染技法と味わい深い色合いはすぐに大阪中の評判となったという。
 阿波安染の特徴は、表裏両面に糊を置き、両面から刷毛で生地に染料液を刷毛で均一に染織する引き染めを行うところで、両面から染め付けるため、深い色合いが出てもちも良いといわれている。
 阿波安染は、今なお当時の風合いを留める伝統的な染め物である。
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2008/4/11


暖簾(五三桐) Noren(Gosan-no-kiri) 

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 飯屋や居酒屋の入り口に垂れ下がり、時折風になびかれながら、訪れる客を奥へといざなう暖簾。
 普段、何気なく目にする光景であるが、元々は直接風や光が入るのを防いだり、寒さよけとして取り付けられたものであった。
 いつしか、そこに商店の家紋や職業を表す紋があしらわれ、玄関を飾るようになった。
 日本ならではの情緒と風情を漂わすその暖簾が、例えば自宅にあったらどうだろうか。
 「暖簾(五三桐)」は、そうした希望を叶えてくれる品である。
 縦150cm、横84cmと、サイズもちょうど日本家屋の廊下の出入り口等にかけるのに適しており、手染めの風合いがやさしく、程よい。
 その色合いも本来なら白や青など単調なものが多いが、上に赤、
下に藍と茶と趣ある色使いに五三桐の家紋を施すことで重厚な雰囲気をかもし出している。
 「暖簾に腕押し」という言葉があるが、この暖簾には何か重厚な手ごたえを感じられるかもしれない。
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