NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/10


京印章 Kyou-inshou 

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 京印章(きょういんしょう)は京都で作られる印章(判子)のことである。
 印章は、聖徳太子の飛鳥時代に中国から伝わったといわれ、大宝律令で国の制度に印章が取り入れられた。
 京都では平安時代になると天皇の印などが作られるようになり、時代とともに印章は天皇、公家、武士、豪商と使われるようになっていった。
 江戸時代に日本最初の印半師が京都三条に住んでいたといわれる。その後、京都では数多くの印半師が活躍し、京印章は芸術的にも優れた文化として現在に受け継がれている。
 京印象は中国の漢の時代の作風を引き、当初は、書体が中心であったが、平安時代後期には風雅を好む花印(かおう)も多様されるようになった。
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2008/8/26


法起寺 三重塔 Hokki-ji Sanjuu-no-tou 

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 飛鳥時代の慶雲三(706)年に建立されており、日本最古の三重塔である。建立後は再三にわたり大修理が行われたが、調査研究が重ねられ、飛鳥時代の様相をとどめている。
 本瓦葺であり、屋根の勾配がゆるく軒が深い。初層から上層にいくにつれ細くなる、安定したシルエットである。高さは約24メートル。特異な形式である薬師寺東塔を除けば日本最大の三重塔である。
 軒下の雲の形の雲肘木(くもひじき)という組み物、卍(まんじ)を崩した形を繰り返した卍崩しという文様など飛鳥時代の形式である。内部には仏壇に大行天皇(たいこうてんのう)尊儀と書かれた位牌を祀る。
 昭和二六(1951)年に国宝に指定されている。また、法起寺は「法隆寺地域の仏教建造物」として平成五(1993)年に世界遺産に登録されている。
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2008/8/9


江戸刺繍 Edoshisyuu 

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 日本で刺繍が行われるようになったのは飛鳥時代のこと。中国から仏教が伝来し、金銅仏と並び刺繍による仏像、いわゆる繍仏(しゅうぶつ)が多数作られたのが始まりである。
 平安時代、公家社会が発達するにつれ、男子の束帯や女性の十二単衣(ひとえ)などの衣類に刺繍が登場し、安土桃山時代になると染めに刺繍を入れた相互性刺繍が多くなり、更に、装飾性を増していくようになる。
 江戸時代中期、天下太平の下で経済力をつけた町民階級が台頭し、あらゆる染色技術に刺繍も加えて絢爛豪華な着物を次々と生みだした。
 江戸の繁栄とともに江戸刺繍は隆盛を続け、当時、刺繍職人は繍箔師(ぬいはくし).縫物師(ぬいものし)とよばれた。
 江戸刺繍は図柄を置くときに空間を楽しむような刺繍の入れ方をするのが特色である。
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2008/8/8


緋色(ヒイロ) Hiiro 

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 緋色(ひいろ)は、日本に古くから伝わる伝統色のひとつである。
 茜の根によって染められた鮮やかな赤の事で、紅花と黄色染料の2種類を使って出来る「紅緋」と区別する為、茜染による標準的な濃さの緋色や紅で染めた黄色をおびた赤い色を「本緋」という。
 元は緋(あけ)、真緋(あけ)といい、明るさを意味する「あか」と同じ意味をもち、また、別名で「あけいろ」とよぶ事もある。
 この色名はかなり古くからあり、飛鳥時代に制定された「冠位十二階」の色の中では、紫に次ぐ第3位の色とされていた。
 火に通じて「火色」とも書き、「思ひ」の「ひ」にかけて「思いの色」とも呼ばれ、熱い情熱をたとえたものともされる。
 英語ではスカーレットを指すとされ、コナン・ドイルの「緋色の研究」など、スカーレットと緋色はしばしば同一視されている。
 緋色は、情熱を表すとも言われる伝統色である。
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2008/7/11


丙子椒林剣 Heishi-syourin-ken 

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 丙子椒林剣(へいししょうりんけん)は、大阪府大阪市天王寺区の四天王寺にある、長さ65.8cmの日本の直刀である。国宝に指定されている。
 四天王寺は、推古天皇元(593)年に聖徳太子により建立された寺院で、本尊は救世観世音菩薩(くせかんぜおんぼさつ)。
 丙子椒林剣は、聖徳太子の剣と伝わる、7世紀の飛鳥、白鳳時代作と伝えられる切刃造(きりはづくり)の刀である。鎌倉時代から記録があり、当時すでに剣の拵えが無かった事が判明している。
 名前は、太刀の内側である佩裏(はきうら)に、同銘の金象嵌が施されている所からこの呼称になった。言葉の意味は、江戸時代の新井白石によると丙子は干支の一つ、椒林は作者の名だとされるが、諸説あって解明されてはいない。
 地肌が梨の実の切断面のように潤って見える美しい梨子地肌風であり、この時期の上古刀としては現存する最高の出来とされる。
 丙子椒林剣は、七星剣(しちせいけん)と共に聖徳太子愛用と言われる、日本の刀剣である。
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2008/7/7


白峯神宮 Shiramine-jingu 

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 京都西陣に建つ白峯神宮(しらみねじんぐう)は、無念の死を遂げた二人の天皇の慰霊のために、明治天皇により創建されたとされている。
 崇徳天皇は保元元(1156)年、保元の乱に敗れ、讃岐に流され、亡くなったとされている。白峯の名はその崇徳天皇崩御の地となった白峯山に由来するといわれている。
 孝明天皇(こうめいてんのう)は異郷に祀られていた崇徳天皇の慰霊のため、京都に移すよう幕府に働きかけるが、間もなく崩御。
 明治元(1868)年、明治天皇は父の遺志を継ぎ、社殿を建て、崇徳天皇を祀る。また、藤原仲麻呂の乱により淡路に流され亡くなった淳仁天皇が、明治六(1873)年に合祀されている。
 代々蹴鞠の師範を家業とした飛鳥井家(あすかいけ)の屋敷跡に建つことから、飛鳥井家の鎮守神であり、鞠の神様といわれている精大明神も祀られている。
 今では蹴鞠の神様として、サッカーをはじめ、球技全般の守護神として知られ、スポーツ関係者が多く参拝に訪れるという。 
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2008/7/3


七星剣 Shichisei-ken Shichiseiken (Seven Star Sword)

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 七星剣(しちせいけん)は、大阪府大阪市天王寺区の四天王寺が所有している、長さ62.1cmの日本の直刀である。国宝に指定されている。
 四天王寺は、推古天皇元(593)年に聖徳太子により建立された寺院で、本尊は救世観世音菩薩(くせかんぜおんぼさつ)。
 同じく四天王寺所有の丙子椒林剣(へいししょうりんけん)と並び、聖徳太子愛用の剣と伝わる。
 名前の由来は、金象嵌(きんぞうがん)の七星文、つまり北斗七星が描かれていた事による。その他、表に金象眼五飛鳥雲、七星の両側にV字型の三星と横に並んだ三星に青竜と白虎が刻まれ、裏には雲紋と北斗七星・それに青竜と白虎が刻まれている。
 作風は丙子椒林剣にくらべ、スラグと呼ばれる金属の残留物が目立つものの、地金は小板目肌と呼ばれる細かく目の詰まったもので、匂口(においぐち)に大粒な粒子が厚くつき、これに小さな粒子がついた細直刃となっている。
 七星剣は、日本の古代より伝わる貴重な刀剣である。
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2008/6/18


廣瀬大社 Hirose-taisha 

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 奈良県北葛城郡河合町にある廣瀬大社(ひろせたいしゃ)は、水の守り神として知られている。ご主神は、若宇加能売命(わかうかのめのみこと)で、佐保川・初瀬川・飛鳥川など、大和盆地を流れる全ての川がひとつに合流する地に祀られている。
 創建は、崇神天皇九(前89)年といわれ、廣瀬の河合の里長に御神託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになったという。
 生駒郡三郷町に鎮座する龍田大社の龍田風神と深い縁があるとされ、廣瀬神社と龍田大社にて、風水を治め、国家安泰を祈願したといわれている。
 境内入口にある朱色の鳥居から参道を歩くと、正面に拝殿があり、後方に春日造の朱色の本殿がある。
 拝殿前は一面砂で覆われている。これは毎年二月一一日に催される御田植祭「砂かけ祭」によるもので、拝殿前の広場を田圃に見立て、田植の所作を行なう神事である。五穀豊穣と雨水の多量を願い、牛の面を被った牛役、お百姓と早乙女が登場し、神事がおこなわれる。
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