NIPPON Kichi - 日本吉

記事数19件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/2/1


世阿弥 Zeami Zeami

Jp En

 世阿弥(ぜあみ)は、室町時代初期の猿楽師である。実名は、元清。
 貞治二(1363)年、大和猿楽の有力な役者であった観阿弥の子として生まれる。幼名は、鬼夜叉。通称は三郎。
 12歳の時、観阿弥が今熊野で行った猿楽能に出演し、当時18歳の3代将軍足利義満に気にいられ、以後庇護を受ける。連歌師でもあった摂政二条良基から藤若という名を賜るなど、武家や貴族の文化に触れつつ自らの美意識を昇華させ、父観阿弥とともに能を大成させた。父の死後、観世太夫を受け継ぐ。世阿弥という名は、仏教の教派の一つである時宗の法名である世阿弥陀仏からきている。
 『風姿花伝』『花鏡』など多くの伝書を残し、「秘すれば花」に代表される美学は、600年を経た今でも鮮烈な輝きをもっている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/8/17


播州歌舞伎 Banshuu-kabuki 

Jp

 播州歌舞伎は、江戸時代の元禄年間(1688〜1704年)に、兵庫県加西市北条の高室地域ではじまった高室歌舞伎の流れを組む、千三百年の歴史を持つ「農村歌舞伎」である。
 高室座は昭和十二年頃に廃れたが、現在では兵庫県多可郡中町に本拠を置く嵐獅山一座がその伝統を受け継いでいる。
 播州歌舞伎の魅力はなんと言っても、練りに練ったオーバーアクション。斬られて死ぬ場面でも、ちょっとやそっとでは死なない。「播州歌舞伎は泥臭いもの。観客と役者がわあわあと楽しむ。それが大衆演劇だ」と、播州歌舞伎の継承者、中村和歌若氏は語る。
 現在では、「播州歌舞伎」は嵐獅山一座のブランド名となり、全国にもその名が知られている。昭和四八年には、東京の国立劇場にも出演した。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/6/28


長浜曳山まつり Nagahama-hikiyama-matsuri 

Jp

 毎年四月の一四日から三日間に渡って行なわれる長浜曳山(ながはまひきやま)まつりは、京都祇園、飛騨高山とともに代表的な山車祭りの一つである。
 歴代の名工が漆や金銀の彫刻などの装飾を施した曳山は、動く美術館と言われるほど絢爛豪華で、見応えがある。祭りの一番の見どころは、五歳から一二歳くらいの男の子が演じる「子ども歌舞伎」。「出番山」と呼ばれる四基の曳山の舞台で演じられるが、夜ともなれば提灯に灯が入り、一層艶やかさを増す。
 また、一四日の夜七時に長浜八幡宮を出発し、それぞれ役に応じた歩き方で練り歩く子ども役者の行列「夕渡り」も、歌舞伎に劣らぬ見どころである。
 戦国時代、豊臣秀吉が初めての男子誕生を喜んで城下の人々に砂金を贈り、町民がこれを元にして一二基の山車を作って八幡宮の祭礼に曳き回したのが、長浜曳山まつりの始まりとされている。昭和五四年、国の重要無形民俗文化財に指定された。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/6/21


市川團十郎 Ichikawa-danjuurou Ichikawa Danjuro

Jp En

 市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)とは、江戸歌舞伎の役者の名前であり、歌舞伎市川流の宗家である市川團十郎家の当主名である。
 万治三(1660)年から元禄一七(1704)年を生きた初代市川團十郎は、浄瑠璃や江戸歌舞伎の荒武者事の荒っぽい演出、また一日の狂言の最後に「荒人神の分身」となって立ち現れる神霊事の演出を組み合わせたことで新しい荒事を作り上げたり、また狂言作家「三升屋兵庫」としても活動していた。
 現在は一二代目で屋号は成田屋、家紋は定紋が三枡(みます)、替紋が杏葉牡丹(ぎょようぼたん)である 。
 この名は通常、世襲制であることから「新之助」「海老蔵」を経て襲名することが多い。
 成田屋の定番の歌舞伎である十八番の中では、暫(しばらく)、蛇柳(じゃやなぎ)、鳴神(なるかみ)、嫐(うわなり)、不破(ふわ)、勧進帳(かんじんちょう)が初代が演じたものとされる。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/6/4


能面 長霊べし見 Noumen Choureibeshimi Noh Mask Chorei-beshimi

Jp En

 能面「長霊べし見」は、能の「烏帽子折」とその続編「熊坂」で登場する盗賊の首領、熊坂長範の役者が付ける面である。
 「烏帽子折」「熊坂」ともに、平安時代を舞台とした、牛若丸が主人公の物語。熊坂長範は、牛若丸に討ち取られる盗賊の首領である。「熊坂」のクライマックスは、牛若丸と熊坂長範との迫力ある大立会いの場面だ。
 「長霊べし見」の面は、かっと見開いた目にギョロリとした目玉が特徴。鼻も口もユーモラスなほど大きく、戯画的で迫力ある形相をしている。盗賊らしさを存分に表した面だ。
 「長霊べし見」は、悪名高き大盗賊の存在感を際立たせる表情豊かな能面である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/4/26


帯揚げ Obi-age 

Jp

 帯揚げは着物の着付け用の小物であり、帯の形を整える帯枕(おびまくら)にかぶせて帯を固定し、飾る布のことを指す。
 歌舞伎役者、二代目瀬川菊之丞が生み出した「路考結び」がほどけやすいことから、それを支えるために用いられたことが始まりとされる。
 その後、江戸時代末期に深川芸者が亀戸天神の太鼓橋の渡り初めの際に考案された「お太鼓結び」を支えるために使われたことから、広く知られるようになったと言われている。
 綸子(りんず)、絞り(しぼり)、縮緬(ちりめん)などの種類の布と様々な色、柄を使い分けることにより、着物や帯に美しい彩りを与える重要な小物である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




上方浮世絵 Kamigataukiyoe Kamigata Ukiyoe

Jp En

 「上方浮世絵(かみがたうきよえ)」は、江戸時代後半から明治時代初期(1800年代)にかけて、主に大坂で作られた浮世絵版画。
 美人画や風景画が少なく、歌舞伎芝居を描いた役者絵がほとんどの画題を占める。江戸の浮世絵師の作品とは異なり、役者をそのままの姿で描くところに特徴がある。
 フルカラー印刷された木版画(錦絵)は1765年に江戸で発明され、またたく間に江戸中に広まり、庶民が得られるようになった。 
 それから、四半世紀後、浮世絵は黄金期を迎え、歌麿が活躍し、北斎・写楽が活躍する直前の1791年、上方(京都・大坂)でも上方浮世絵が描かれるようになった。
 海外では「OSAKA PRINTS」と呼ばれ、大英博物館をはじめ、世界各地の美術館に収蔵されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/4/20


成田不動尊 Narita-fudouson 

Jp

 成田不動尊は、千葉県成田市成田にある真言宗智山派の大本山・成田山新勝寺の別名である。本尊は、不動明王とされる。
 天慶3(940)年、寛朝大僧正によって弘法大師が敬刻開眼した不動明王を奉持し、東国鎮護の霊場として開山した。
 江戸時代には、歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して成田屋を名乗り、不動明王が登場する芝居を打つなどして、成田不動は庶民から厚く信仰された。
 真言宗智山派関東三本山のひとつであり、関東三大不動のひとつとされ、日本各地に別院がある。
 22万平方mの広大な境内には額堂や光明堂、釈迦堂、仁王門、三重塔が点在する。現在の大本堂をはじめ、見所は多い。
 成田不動尊は、人々に親しまれ、年間1000万人もの参拝者が訪れる名刹である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数19件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter