NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/22


一乗寺 三重塔 Ichijyou-ji Sanjuu-no-tou 

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 一乗寺(いちじょうじ)は、兵庫県加西市坂本町にある天台宗の寺である。本尊は、聖観音像。西国三十三箇所第26番、播磨西国三十三箇所第33番札所とされる。
 白雉元(650)年、法道仙人が金銅の聖観音を携えて渡来し、堂宇を建てたのが創建とされる。
 三重塔(さんじゅうのとう)は、平安時代の承安元(1171)年の建築とされ、各重とも方三間で、各重の落ちは上重ほど大きく、軒高の差と軒出は上重ほど小さく、古塔の姿をよくとどめており、国宝に指定されている。
 高さは21.8mあり、本瓦葺で高欄のない縁をめぐらし、中央間桟唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも蟇股で、水煙は唐草文様になっている。
 一乗寺の三重塔は、古代から中世への移行期の技法のあり方をうかがい知る事が出来る、長い歴史を誇る建築物である。
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2008/8/7


伎楽面 Gigaku-men Gigaku Mask

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 中国から伝わった伎楽(ぎがく)は、大きな仮面をつけて演じる、台詞が全くない無言劇のことである。
 この伎楽で用いる仮面を「伎楽面(ぎがくめん)」といい、舞楽面や能面よりも大きく、頭からすっぽりと被るもので、人顔・妖怪・獅子・金剛など役柄に応じて様々な種類が存在する。
 正倉院や法隆寺、東大寺などには、百面を超える伎楽面が現存し、国宝として指定されている。
 日本では六世紀頃、仏の教えを深く理解させ仏法を広める目的として、寺社の境内で盛んに伎楽が上演されていた。天平勝宝四(752)年、東大寺の大仏開眼の際にも、大規模な伎楽がおこなわれ、その時の伎楽面が正倉院に残されている。
 伎楽面には、「木彫」と漆を塗って固めた「乾漆」があり、木彫には楠木や桐が使われている。
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2008/8/4


瓢鮎図 Hyounen-zu 

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 瓢鮎図(ひょうねんず)は一五世紀頃の室町時代に描かれた墨画である。もやのかかった山を背景に竹の生えた野辺の一角で、風変わりな男が両手に瓢箪(ひょうたん)を持ち、水中に泳ぐ鮎(なまず)を捕らえようとしている。
 苦労して成功するという中国のことわざ「鮎魚、竹竿に上る」を含ませ、更に瓢箪を加えて「つるつるな瓢箪でぬめぬめしたなまずを捕らえることができるか」というユーモラスな問いかけをしている。
 当時の京五山の禅僧三一人が参詩を添えている。「上手く捕ろうとするなら更に瓢箪に油を塗り、一層手を滑らせれば成功するのではないか?」など自由で遊び心のある問答になっている。
 宋元画を学び、山水画の始祖といわれている如拙(じょせつ)が、足利義持(あしかがよしもち)の命により描いた作品で、初期水墨画の代表作と言われている。
 京都市右京区花園にある退蔵院にあり、昭和二六(1951)年に国宝に指定されている。
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2008/7/31


寝覚物語絵巻 Nezamemonogatari-emaki 

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 寝覚物語絵巻(ねものがたりえまき)は、奈良県奈良市学園南の大和文華館にある大和絵である。国宝に指定されている。
 寝覚物語絵巻は、平安時代後期に書かれたと推定される王朝物語「夜半の寝覚(よわのめざめ)」を絵物語にしたものである。
 物語の作者は菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)と伝えられるが、真偽は判然としない。
 寝覚物語絵巻は、主人公「寝覚の上」の数奇な恋の物語を優美な大和絵の手法で描いた作品で、はんなりとした色あい、細やかな筆遣いが美しい。
 絵巻は絵と詞書とも四段からなっているが、絵一段に対応する詞書は失われている。
 寒色系の顔料を多用し、精緻に描かれた画面には、平安貴族の耽美的な趣味が色濃く表れている。
 寝覚物語絵巻は、平安時代に描かれた貴重な王朝絵巻である。
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2008/7/25


愛知 如庵(国宝) Aichi Joan(Kokuhou) 

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 如庵(じょあん)は、愛知県犬山市にある庭園「有楽苑」内にある茶室である。
 元和四(1618)年に織田信長の実弟である織田有楽斎により、京都市にある建仁寺の塔頭(たっちゅう)である正伝院が再興された際、建造された茶室だ。
 明治四一(1908)年に東京の三井本邸に移築されたが、その後、一旦神奈川に移ってから昭和四七(1972)年に現在地に移築され、今に至っている。
 京都府にある妙喜庵・待庵(たいあん)と大徳寺龍光院・蜜庵(みったん)とならび「三名席」とも称され、国宝指定されている三席の茶室の一つとなっている。
 柿(こけら)葺き入母屋風の妻を正面に向けた二畳半台目向切の茶室で、内部には足元に三角形の板畳である「鱗板」を敷き、有楽窓と呼ばれる窓や斜めの壁と中柱の構えなど、随所に様々な工夫が凝らされており、千利休の独創性あふれる待庵ともまた違った、端正な佇まいを見せている。
 毎年の三月と十一月には一般公開されており、今も多くの人が訪れている。
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妙喜庵 待庵(国宝) Myoukian Taian(Kokuhou) 

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 妙喜庵・待庵(みょうきあん・たいあん)は、京都府乙訓郡大山崎町にある臨済宗東福寺派・豊興山妙喜庵境内に静かに佇ずむ茶室である。
 天正九(1582)年の羽柴秀吉と明智光秀による「山崎の合戦」の際、秀吉が山崎の地に陣を張った折、茶人として知られる千利休を招いて陣中に作らせた茶室が、現在地に移築されたと伝えられている。
 愛知県犬山市の如庵(じょあん)と京都府の大徳寺龍光院にある密庵(みったん)にならび、国宝に指定されている三茶室の一つであり、利休作とされる茶室としては国内唯一のものとされる。
 また、茶室建造物としては日本最古であり、数奇屋建築としての原型かつにじり口を設けた茶室の始まりでもある。
 この待庵が最初といわれる茶室に窓を設けたことなど、利休独特の構想が随所にちりばめられており、窓からさしこむ日差しは、黒ずんだ荒壁仕上げの壁に覆われた重厚な室内をよりいっそう趣ある空間に照らし出している。
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2008/7/14


小桜韋威鎧 Kozakuragawaodoshi-yoroi 

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 小桜韋威鎧(こざくらがわおどしよろい)は、山梨県甲州市塩山上於曾の菅田天神社(かんだてんじんじゃ)にある防具である。国宝に指定されている。
 菅田天神社は、承和九(842)年に創建したと伝えられる神社で、以来、甲斐武田氏の守護神として崇められてきた。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)。
 小桜韋威鎧は、武田家代々の家督相承の印とされてきた鎧で、矢や刀を防ぐのに楯はいらないほどしっかりと作られているという意味から「楯無鎧(たてなしのよろい)」とも呼ばれている。
 武田氏の館の鬼門にあたるここに奉納したのは武田信玄で、織田氏侵攻により持ち出し、家臣によって向嶽寺(こうがくじ)の大杉の下に埋められていたのを徳川家康が発見し、再びここに戻したと伝わっている。
 小桜韋威鎧は、神功皇后の三韓遠征に功績をあげたとも伝わる、貴重な鎧である。
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華厳五十五所絵巻 Kegon-gojuugosyo-emaki 

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 華厳五十五所絵巻(けごんごじゅうごしょえまき)は、奈良県奈良市雑司町の東大寺(とうだいじ)が所有する絵巻物である。国宝に指定されている。
 現在、東大寺に37段分、藤田美術館に10段分、その他計54段分が存在している。
 大乗仏教の経典のひとつである「華厳経」の「入法界品」に説かれる、のべ55人の聖者を訪ね、最後に普賢菩薩の所で悟りを開いたという、菩薩行の理想者・善財童子(ぜんざいどうじ)の求法の旅を描いた、縦28・6cm、横42・8cmの絵巻である。
 軽快な描線と上品な彩色が特徴で、合掌している童子の姿は非常に可憐で、清澄な画風はひたむきな童子の旅を主題とした内容ともよく調和している。
 華厳五十五所絵巻は、平安時代に制作された貴重な絵巻物である。
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