NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/4/4


能代凧(べらぼう凧) Noshirodako(Beraboudako) 

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 能代凧(のしろだこ)は、秋田県能代市にて発祥したとされる凧で、別名べらぼう凧(べらぼうだこ)と呼ばれている。
 坂上田村麻呂の蝦夷討の時(780~802)、空高く揚がった能代凧を目印に入港したという伝説が伝わる。
 全国の凧に比べて人物の顔が大きく描かれており、空高く揚がっても一目でそれと分かる。また、男女の絵柄がある事も大変珍しく、大きな特徴とされる。
 男べらぼう凧は、目のまわりに歌舞伎のくまどりが塗られ、頭には芭蕉の葉っぱの柄が描かれた頭巾をかぶっている。
 女べらぼう凧は、牡丹の花の柄が描かれた頭巾をかぶっている。
 他に、べらぼう顔以外にも、歌舞伎絵や武者絵など20種類以上という多種の絵柄が存在している。
 能代凧は、アッカンベーをしたユニークな絵柄と鮮やかな色彩が目を引く、面白い凧である。
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2008/3/11


太平山三吉神社 Taiheisan-miyoshi-jinjya 

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 太平山三吉神社(たいへいざんみよしじんじゃ)は秋田県秋田市の標高1171メートルの太平山山頂に建つ神社である。昔より修験の場として崇められ、全国にある三吉神社、太平山構の総本宮である。通称、みよしさん、さんきちさんの呼び名で親しまれている。
 この神社は天武天皇の時代、白鳳二(646)年に役の行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)によって創建されたと伝えられている。後に、坂上田村麻呂が東夷征討の際にこの神社で戦勝を祈願し、お堂を建てたともいわれている。
 太平山は秋田県の東にそびえ、秋田のシンボルともいえる山である。頂上からは世界遺産である白神山地、鳥海山、仙北平野などの美しい景色をパノラマで眺めることができ、また、鳥居と雲海の幻想的なコントラストには、この地が霊験あらたかなことを痛感させられるという。
 毎年一月一七日には「ぼんてん」と呼ばれる、多数の男衆が神様のお力に授かろうと激しくもみあう勇壮な祭りが執り行われ、大勢の見物客が訪れるといわれる。
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2007/9/13


秀麓斎 Shuuroku-sai Shurokusai Temple

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 名取市にある高舘山は標高二〇四メートルで高い山ではないが、平坦な名取平野に浮き出ているため、山頂からの見晴らしはよく、市街地をはじめ太平洋、金華山を眺めることができる。
 この高舘山の山麓に曹洞宗の寺である秀麓斎(しゅうろくさい)がある。熊野新宮社の別当寺で、奥州三十三観音霊場の第二番札所として知られる。
 坂上田村麻呂が東征の際に戦勝を祈願し、観音菩薩を勧請したのが始まりといわれ、本尊の聖観世音菩薩は運慶作といわれている。
 この寺は仙台藩主伊達政宗の書斎でもあったために、寺号の秀麓寺を秀麓齋と改め、現在もその名で呼ばれる。寺号を「斎」とするのは全国でも珍しい。 
 また、境内には立派なもみじで知られている「利勝(りしょう)の紅枝垂」がある。
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2007/5/14


磯良神社 Isora-jinjya 

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 宮城県色麻町にある磯良神社は、色麻町ののシンボルである河童を御神体にした珍しい神社である。
 今から約1200年前の延暦二二(804)年、征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷征伐の時に、常陸国鹿島郡から磯良明神を勧請して祀ったのが始まりと伝えられる。阿度目神や河童明神とも言い、広くに「おかっぱ様」という名で知られている。元は、ここより南方にあった真山三十郎(大崎氏の家臣)の屋敷の氏神として祀られていたが、後に現在の色麻町に移された。木彫りの河童の像を御神体としており、縁結びや子宝に御利益があると言われている。御神体は60年に一度、開帳される。
 この神社の宮司は代々「川童」という姓を名乗っている。
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2007/5/7


五太堂 Godaidou 

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 五太堂(五大堂、ごだいどう)は、宮城県の松島の小島にある。本尊は、五大明王(大聖不動明王・東方降三世・西方大威徳・南方軍荼利・北方金剛夜叉)で、大同二(807)年、坂上田村麻呂が東征のおり、毘沙門堂を建立したのが開創である。
 後に、慈覚大師が延福寺(瑞巌寺の前身)を開いた際、五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになった。
 五大堂の正面に掲げられる額に「五太堂」とあるが、筆の遊びで「大」が「太」になったといわれ、故に、五太堂とも称される。
 現在の建物は、慶長九(1604)年に伊達政宗が再建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工されたものである。国の重要文化財に指定されている
 五太堂は、東北三十六不動28番にも数えられる古刹である。
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2007/3/29


達谷窟毘沙門堂 Takkoku-no-iwaya-bishamon-dou 

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 達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂は、岩手県西磐井郡平泉町、古峯山西光寺内に建つ堂宇である。
 延暦二十(801)年、東征を行なった坂上田村麻呂が戦勝御礼として、108体の毘沙門天像を祀り創建した。元は蝦夷の阿弖流為が立てこもった岩窟であったともいわれる。
 奥州藤原氏の滅亡と共に衰退するが、江戸時代に伊達政宗により再興した。
 現在は興亡を潜り抜けた27体の毘沙門天像が祀られている。
 京都の清水寺を模して作られたと言われ、陸奥の清水寺の異名を持つ。隣接する西光寺は神仏習合の社寺であり、古来からの形を今に残している。
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2007/3/15


豊積神社 Toyozumi-jinjya Toyozumi Shrine

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 豊積神社(とよずみじんじゃ)は、静岡県庵原郡由比町にある神社である。祭神は、木花之佐久夜比賣命とされる。
 創建に関しては、諸説があるが、境内案内では、天武天皇白鳳年間(7世紀末)に五穀の神として豊受姫が祀られ、延暦10(791)年、浅間信仰の普及から、神主の神託により、木花之佐久夜比賣命を祀る神社へ変化したという事になっている。また、別の史料では、創建そのものが、延暦10年となっている。
 いずれにしろ、平安時代の延喜式当時には、浅間神を祀る神社であり、往古は豊積之浅間大明神と称していた。
 坂上田村麿が東征の戦勝報告にここに立寄り宴を催した事から、今も続く「お太鼓祭り」が起ったという。
 豊積神社は、太古からの長い歴史を持つ社である。
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事任八幡宮 Kotonomama-hachiman-guu Kotonomama Hachimangu Shrine

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 事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は、静岡県掛川市八坂にある神社である。祭神は、息長帯姫命、誉田別命、玉依比売命。
 創建時期は定かではないが、社伝では成務天皇の頃(84〜190年)とされている。
 平安時代の延喜式神名帳には己等乃麻知神社と記載されている。
 大同2(807)年、坂上田村麻呂が東征の際、桓武天皇の勅命によって、現在地へ遷座させたと伝えられる。
 枕草子に「思いのままに願い事が叶う」と記される、古い歴史をもつ神社である。
 康平5(1062)年、源頼義が岩清水八幡宮をここに勧請し、以来八幡宮を併称する。
 境内は広く、樹齢約千年の大杉や大楠など樹木が茂り、石垣に囲まれている。
 事任八幡宮は、静かな神域の森に囲まれた、古の社である。
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