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2008/6/26


伊賀上野城(白鳳城) Igaueno-jou(Hakuhou-jou) 

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 伊賀上野城(いがうえのじょう)は、三重県伊賀市上野丸之内にある城である。別名・白鳳城(はくほうじょう)とも呼ばれ、日本100名城に選定されている。
 現在の3層の天守は昭和初期の模擬創建で、正式には伊賀文化産業城というが、旧城域一帯は国の史跡に指定されている。
 天正一三(1585)年、大和郡山から移ってきて伊賀を拝領した筒井定次(つついさだつぐ)により、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺(へいらくじ)の跡に築城された。
 慶長一三(1608)年、藤堂高虎の持ち城となり、城の大改修が行われた。石垣の高さは約30mで、大阪城に次ぐ規模を誇った。
 現在は、当時の内堀と石垣、昭和一〇(1935)年に建てられた天守閣が残っており、城内には武具・甲冑や藤堂家の遺品がある。
 伊賀上野城は、市の北側に位置する伊賀の城である。
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2008/5/1


多賀城址 Taga-joushi 

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 多賀城址(たがじょうし)は、宮城県多賀城市にある城跡である。日本100名城のひとつとされ、国の特別史跡に指定されている。
 神亀元(724)年、鎮守府将軍・大野東人(おおのあずまびと)によって東北経営の拠点として、また蝦夷(えみし)対策基地として築かれ、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)や陸奥守・源義家(みなもとよしいえ)をはじめとして、これ以降の蝦夷討伐に大きな役割を果たした。
 10世紀半ば頃にその使命を終えたとされる。
 現在は発掘調査された成果をもとに復元された基礎が並んでおり、当時の様子を垣間見る事ができる。
 また、江戸時代初期に発見された多賀城碑は、天平宝字六(762)年の銘がある石碑で、栃木県の那須国造碑、群馬県の多胡碑とともに、日本三古碑の一つと呼ばれている。
 多賀城址は、陸奥国府として対北方前線基地であった城跡である。
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