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2007/3/5


ねはん像 Nehan-zou Statue of the Reclining Buddha

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 ねはん像のある江東寺は、永禄元 (1558) 年に有馬氏の菩提寺として創建されましたが、島原城の完成に伴って島原に移され、松倉家の菩提寺となりました。現在の寺域は寛政2年に再興されたもので、再建を祝って奉納された刺繍絵の「釈迦ねはん図」(島原市指定文化財)に因み、昭和32年にねはん像が建立された。
 大きさにして全身8.6メートル、高さ2.12メートル。ねはんとは、煩悩の火を焼きつくして智恵が完成した悟りの境地を指す言葉であるが、釈迦の入滅を表現する言葉としても用いられている。
 このねはん像は、釈迦が故郷に近いクシナーラの沙羅双樹の下、臨終の間際まで弟子たちに懇切な説法を続けている姿を模したもの。足の裏には、大法輪の相(仏足石)が刻まれ、頭部には、信者による写経一万巻が納められている。
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2007/2/19


三春城 Miharu-jyo Miharu Castle

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 三春城は、福島県田村郡三春町にあった城である。
 三春城は、鎌倉〜南北朝時代にかけて、田村氏の田村義顕が大志多山に築いたと言われる。
 やがて、田村氏は強豪に臣従するようになったが、天正18(1590)年の奥羽仕置により、伊達政宗に従い仙台へ去った。
 その後は蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明などの大名の所領となったり、天領になったりした。
 正保2(1645)年、秋田俊季が5万5千石で入封し、以後明治維新まで秋田氏が続いた。
 明治4(1871)年、廃藩置県により廃城となる。
 現在は公園となっており、桜の名所としても知られている。城跡近くには公共機関が集まり、三春町の中枢地域をなしている。
 三春城は、歴史に翻弄された小勢力の悲哀を感じさせる城である。
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小高城 Odaka-jyo Odaka Castle

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 小高城は、福島県南相馬市小高区にあった平山城である。
 小高川の中洲に城を構えていたため、紅梅山浮船城とも呼ばれた、自然の要害地である。
 小高城は相馬氏の居城で、そのはじまりは定かでない。元亨3(1323)年、相馬重胤が下総国から太田の別所館に移ったが、その後小高城に居城を変えた。
 建武3(1336)年、相馬光胤は小高城を大改修し、以後相馬氏の本拠とした。
 南北朝の乱には北朝の重要な地位を占め、戦国時代は伊達政宗と激しく争いながらも生き残った。
 慶長16(1611)年、相馬利胤が居城を移り廃城となった。
 現在、本丸跡には小高神社があり、相馬野馬追い祭りにおいての野馬駆けの神事は見物である。
 小高城は、今や神社となり往時の面影はないが、長い間小高で慕われてきた城である。
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2007/2/16


山形 松山城 Yamagata Matsuyama-jyo Yamagata Matsuyama Castle

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 山形の松山城は、山形県酒田市新屋敷にあった城である。
 松山城は出羽山地西麓の段丘上に位置する平城で、江戸後期に築城された城郭である。
 正保四(1647)年、酒井家の三男忠恒が中山2万石を分地され、中山陣所を居館とした。
 安永八(1779)年、三代・忠休の若年寄としての長年の功績が認められ、5千石の加増と築城の許可がなされ、天明元(1781)年、築城に着手し、7年後に松山城が完成した。
 戊辰戦争では幕軍に付き、明治元(1867)年、降伏・開城した。以後、廃城となる。
 現在は、松山歴史公園となっている。園内のあちこちに城の面影が残り、「多聞楼」とも呼ばれる大手門は県指定文化財である。
 山形の松山城は、江戸の文化を偲ばせる、近世城郭である。
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寒河江城 Sagae-jyo Sagae Castle

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 寒河江城は、山形県寒河江市丸内にあった城である。
 寒河江城は、鎌倉時代に大江広元の嫡男親広が、寒河江に居館を構えたのが始まりとされる。大江時氏は寒河江城を修築して、三重の堀を持つ大きな城とした。
 天正十二(1584)年、最上義光との戦いに敗れ、大江氏は滅亡した。
 その後寒河江肥前の城となったが、義光の死去に際して肥前は殉死し、寒河江城は空城となった。
 1622年、最上氏が改易となり、鳥居忠政が山形藩主となると残されていた寒河江城も破壊され、廃城となった。
 現在の寒河江小学校敷地が本丸跡と言われている。宅地化によって遺構はなくなってしまい、西側をのぞく三方に堀の名残が残されている程度である。
 寒河江城は、地元の豪族・大江氏の、往時を偲ばせる城である。
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向羽黒山城 Mukaihaguroyama-jyo Mukaihaguroyama Castle

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 向羽黒山城は、福島県会津美里町にあった城である。
 永禄四(1561)年、向羽黒山城は黒川城主芦名盛氏が隠居城として築城を開始し、7年の歳月をかけて完成させたという。
 この当時、芦名盛氏は会津を統一した。
 東方では天文二十(1550)年、三春城主田村隆顕と結び安積郡に進攻し、仙道地方への発言力を強め、南郷地方へ進攻した佐竹氏と次第に対峙するようになっていった。
 しかし、天正二(1574)年、嗣子盛興が死去すると、盛氏は向羽黒山城を廃城とし、黒川城に戻った。以後、芦名氏は次第に衰退し、伊達氏に滅ぼされた。
 現在、城跡のある山全体が白鳳山公園として整備されている。
 向羽黒山城は、往時の芦名氏を思い起こさせる、古城である。
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2007/2/14


高天彦神社 Takamahiko-jinjya Takamahiko Shrine

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 高天彦神社は奈良県御所市、金剛山中腹に位置する古社である。
 祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)別名は高天彦神(たかまひこのかみ)、葛城氏の祖神とも言われ、神社裏にそびえる白雲峯(694メートル)が御神山として古くから祭られている。
 日本神話における天孫降臨の地である、高天原であるとの伝承が伝わる。
 急勾配の参道にはうっそうと茂った巨大な杉が立ち並び、いにしえの荘厳さを今に残している。
 参道下に立つ鶯宿梅(おうしゅくばい)は奈良時代、若くして亡くなった小僧を悲しんでいた師の前の梅の木に鶯が止まり、和歌を読んで鳴いたことからその名が付いたとされ、春先には見事な花を咲かせ、古道を彩る。
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2007/2/9


仙台城 Sendai-jyou Sendai Castle

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 1601年築城。現在の宮城県仙台市の青葉山にある平山城である。別名、青葉城ともいう。
 慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り、伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。
 山城という不便さがあって,後に若林館を作り,晩年はそちらで過ごしている。
 仙台城は、青葉山を削平した本の丸を中心に梯郭式に二の丸・東の丸・三の丸が配置され、広瀬川の流れが自然の外堀となり、城の南には龍ノ口渓谷の深い谷が立ちはだかっている。
 広瀬橋を渡り、なだらかな坂を登った所が、大手門跡だ。肥前名護屋城の大手門を移築したとも伝えられる二層の大手門は、惜しくも戦災で無くなり、復元された二層の大手門脇櫓と道を挟んだ城壁が、当時の大手門付近の面影を僅かに偲ばせる。
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