NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/7


正倉院 Shousouin 

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 天平勝宝八(756)年六月二一日、光明皇后が聖武天皇の七七忌に、遺品を大仏に献納したのが正倉院(しょうそういん)宝物の始まりといわれている。
 「正倉」とは寺の倉庫の意味で、かつてはどこの寺にも存在していたものだが、現在では東大寺のものだけが残り、固有名詞となっている。もともとは東大寺の倉庫であったが、現在は東大寺を離れ、宮内庁の管轄となっている。
 この建物は奈良時代につくられ、三角の木材を組み合わせた「校倉造り(あぜくらづくり)」の内部は三倉に分かれており、「三ツ倉」とも呼ばれている。また高床式になっており、聖武天皇の遺愛品や東大寺の年中行事で使用される仏具、そして遣唐使や留学生が持ち帰った工芸品などが納められている。
 正倉院宝物は通常は見ることができないが、毎年一〇月下旬から一一月にかけて曝涼(ばくりょう)と呼ばれる虫干が行なわれ、この時に一部の宝物が奈良国立博物館で「正倉院展」として公開される。
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2007/9/27


最澄 Saichou Saicho

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 最澄(さいちょう)は平安時代初期の僧。日本天台宗の開祖。
 天平神護二(767)年、近江国(滋賀県)の生まれ。中国からの渡来人・三津首(みつのおびと)の子孫で、幼名は広野といい、14歳で近江国・国分寺に出家し、名を最澄とした。
 19歳の頃、東大寺で正式の僧となるが、 官寺仏教に疑問を持ち、比叡山に一乗止観院(延暦寺の前身)を建立し、そこに籠もり修行した。開眼し下山するまで約12年を要し、それが「12年籠山」という修行規則として制度化されている。
 延暦二三(804)年に唐に渡り、円・密・禅・戒という四宗を学んだ。帰国後、桓武天皇の支持を受けて天台宗を創設した。『山家学生式』『顕戒論』『内証仏法血脈譜』などを記している。
 弘仁一三(822)年に比叡山の中道院で没。没後44年目に日本で最初の伝教大師の称号が与えられた。
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2007/7/19


福江みなとまつり Fukue-minato-matsuri Fukue Harbor Festival

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 福江(ふくえ)みなとまつりは、長崎県五島市福江町で毎年9月30日、10月1日に開催される秋祭りである。
 市民総踊り、花火大会など様々なイベントが行われるが、メーンとなるのは「五島ねぶた」。総勢3千人が参加する勇壮なねぶたは、大小十数基の山車燈篭(とうろう)が繰り出し、沿道の見物客を魅了する。
 昭和五二年から始まったこのねぶたは、青森より導入されたもの。「遣唐使船」「倭寇」など、五島列島の歴史や民話をテーマとした迫力あるねぶただ。鎖国時代以前の16世紀より中国と交流のあった五島ならではの演目である。
 ねぶた行列は午後7時頃に始まり、「ラッセ、ラッせ、ラッセラー」という威勢のよい掛け声とともにねぶたの周りを飛び跳ね踊る「はねと」も大勢登場する。
 祭りでは、ねぶたのほか「炎上太鼓」や「五島ハイヤ・ソーラン踊り」披露、花火大会など、多彩なイベントが行われ、毎年多くの観光客で賑わうという。
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2007/5/29


空海 Kuukai Kukai

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 空海(くうかい)は、中国から密教を伝えた日本真言宗の開祖である。書道家としても、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆の一人と言われる。
 宝亀五(774)年、四国の善通寺近くにて生誕、奈良の大学で学ぶが、儒学では社会の矛盾を解決できないと悩み、空海と名乗り修験者となる。
 延暦二三(804)年、最澄らと中国へ渡り、文化・宗教などを学び、翌年、密教の頂点に立つ青龍寺の恵果を訪れ、密教を継承。二年後に帰国、高雄山寺にて真言宗を興し、中国で学んだ知識を活かして各地で土木工事の指揮を取り、書道や絵画・彫刻の才能を発揮し、宗教家・社会事業家・芸術家として精力的に活動したが、承和二(835)年、3月21日に高野山にて病死する。
 天安元(857)年、文徳天皇は空海に大僧正の号を遺贈する。
 延喜二一(921)年、醍醐天皇が空海に弘法大師の諡号を贈る。
 弘法大師空海は、平安以後の日本仏教に多大な影響を与えた、数多くの伝説を持つ高僧である。
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2007/5/1


吉祥院天満宮 Kissyouin-tenmanguu 

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 京都府京都市南区にある神社。御祭神は菅原道真公と吉祥天女。
 菅原道真が亡くなって三十一年目の承平(じょうへい)四(934)年、道真誕生の地に、朱雀天皇の勅命によって創建された。
 道真の祖父清公卿は遣唐使の命を桓武天皇から受けて、渡航したが船中において暴風雨に遭遇。なんとか無事に入唐するが、そのおり吉祥天女の霊を見たことから、神の御加護があったと考え、帰国後、自邸内に吉祥天女の尊像を祀った。「吉祥院」の名はここからきている。
 境内の「胞衣の塚」(えなのづか)は、道真のへその緒を生めたところといわれ、道真はここで誕生し幼少時代をすごした。
 道真の幼少時に手習いに使ったという「硯之水」は吉祥天満宮の東に近年まで豊富に湧き出ていたが、その後枯れてしまったため、境内に井戸を掘り再び「硯之水」が蘇っている。
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2007/2/12


海龍王寺 Kairyuuou-ji 

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 奈良県奈良市にある海龍王寺は、
731年、光明皇后が平城宮の東北(鬼門)の方角を守るため、開基したのが始りとされている。
 僧侶玄肪が帰船中、暴風雨に襲われ、命からがら唐から帰国。5千巻余の経典を持ち帰り日本の仏学に大きく貢献した。その後は、遣唐使たちの渡航の無事を願って、渡航安全祈願を営むようになる。法華寺の東北隅にあったことから、隅寺とも呼ばる。
 境内にある西金堂(重要文化財)には、高さ4メートルの国宝の五重小塔がある。細部の様式が薬師寺のものと似ており、当時の建築を知る貴重な手がかりとなっている。
 また、本堂には寺門勅額(重要文化財)、鎌倉時代に造立されたとされる十一面観音立像、文殊菩薩立像(いずれも重要文化財)が安置されている。
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2006/12/15


大阪唐木指物 Oosaka-karaki-sashimono Osaka Karaki Joinery

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 最初の唐木を用いた製品は、奈良時代に遣唐使によって日本にもたらされた。奈良の正倉院には当時の唐木製品がいくつも保管されている。その後、日本でも製作されるようになり、現在の大阪唐木指物に見るような、優れた唐木指物の技術が築き上げられた。
 現在のような産地形成は、江戸中期に整う。京や大阪に裕福な商人たちが現れ、華道や香道で用いる道具や調度品に唐木指物を愛用する人々が増えていったためだ。大阪で唐木製品が定着したのはこの頃で、大阪薬業の歴史書によると、長崎に運び込まれたほとんどの唐木材はすべて、大阪の薬種問屋が引き受けた。唐木材から製品を作る専業の商人が多数出現し、広く一般に出回り始めた。
 製品には、紫檀・黒紫檀等の唐木を素材として飾り棚、茶棚を始め座敷机・花台などの机類が主流を占める。
明治時代に登場した「座卓」は現在の唐木指物を代表する製品のひとつとなっている。
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