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2008/7/25


運慶 Unkei 

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 運慶(うんけい)は、平安時代末期~鎌倉時代初期に活動した仏師である。
 一二世紀半ば頃、奈良の名仏師・康慶(こうけい)の子として生まれた。
 平安中期以来造像の基準であった定朝様式の作風が固定したことに対し、鎌倉時代にその反省がおこり、運慶は父・康慶とともに定朝様式を受け継ぎながらそれを脱却、強く鋭い作風を築きあげていった。
 天才的な腕前を誇り、1180年代後半の一時期、鎌倉武士のために仏像を手がけ、貴族中心の平安の世から武士社会である鎌倉時代への変遷の中で、仏像も優雅端整なものから質実剛健なものが好まれる様になり、その流れに合って運慶派はもてはやされるようになったという。
 代表作として、東大寺南大門の金剛力士像、興福寺の諸像などが知られている。
 運慶は、慶派の中心的仏師として活躍した名仏師である。
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2008/3/6


東大寺 南大門(国宝) Toudai-ji Nandai-mon(Koku-hou) 

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 東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。
 南大門(なんだいもん)は、天平宝宇六(762)年頃に建立されたが、その後倒壊と再建、焼失を経験し、現在残るものは鎌倉時代の正治元(1199)年に再建されたもので、国宝に指定されている。
 俊乗坊重源(しゅんじゅうぼうじゅうげん)が宋から伝えたといわれる、大仏様(だいぶつよう)方式で建築されており、上屋根と下屋根が異常に接近していて、直径1m、高さ24mの円柱が18本林立している。
 当時の和様技法では太い柱が必要であったが、大仏様の「貫」技法により、柱径を細くするだけでなく柱間隔も広げる事が出来た。
 門の左右にある金剛力士像は、建仁三(1203)年に運慶・快慶他によって作られた。
 東大寺の南大門は、東大寺大伽藍の正面に建つ雄大な正門である。
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南大門 金剛力士像 Nandai-mon Kongourikishi-zou 

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 東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。
 南大門(なんだいもん)は、鎌倉時代の正治元(1199)年に再建された東大寺の正門で、国宝に指定されている。
 俊乗坊重源が宋から伝えたといわれる、純粋な大仏様(だいぶつよう)方式で建築されており、全国に2棟しか現存していない。
 金剛力士像(こんごうりきしぞう)は、建仁三(1203)年に運慶・快慶他によって作られた高さ8.4mの巨大な木像であり、同じく国宝に指定されている。
 剛健なる姿、筋肉の躍動感あふれる造形美を持ち、息を吐き、手を開く開放型の阿形(あぎょう)、息を吸い、指を結ぶ姿の吽形(うんぎょう)の一対からなり、南大門の門内左右に配置されている。
 南大門の金剛力士像は、威厳と豪放さを備えた木像である。
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2008/2/18


甚目寺 三重塔 Jimoku-ji Sanjuu-no-tou 

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 甚目寺(じもくじ)は町名にもなっている真言宗の古刹で、伝説によると推古五(597)年の建立といわれる。出土した瓦から、7世紀後半にはすでにこの地に伽藍が存在していたことが確認されており、三重塔や南大門、東門など多くの国の重要文化財が残る。
 江戸時代初期の寛永四(1627)年、名古屋の両替商吉田半十郎政次の寄進により建立された塔は約25m。三重塔としては日本有数の高さを誇る。本瓦葺の純和風の大型の塔で、釘は一本も使われていない。
 塔の内部には四天柱(してんばしら)や須弥壇(しゅみだん)があり、鎌倉時代の作で県の文化財に指定されている愛染明王坐像(あいぜんみょうおう)が祀られている。柄杓を奉納する風習がある。
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2007/5/22


墨壷 Sumitsubo 

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 大工道具、である。しかしながら単なる道具の域を超えた、造形的に芸術品と言えるようなものも存在している。
 用途は、木材にまっすぐな線を描くことだ。「墨付け」あるいは「けがき」と言う。「池」と呼ばれるくぼみの中に墨を含んだ綿が入っており、その間を通って引き出された墨糸をピンと張り、木材を打つように指で弾くことによって真っ直ぐな線を描く道具である。
 墨付けから工事が始まり、また仕上がりの良し悪しも墨付けの正確さが決定することから、墨壷には機能性とともに仕事の成功を願う職人の気持ちが込められるのだ。
 奈良・東大寺南大門の梁の上で見つかった有名な「忘れものの墨壷」は、実は大切な大工道具を敢えて置いて行ったと思われる当時の棟梁の、恐らく最後の仕事の証でもあり、南大門を守り続けて欲しいという職人の願いの象徴でもあったのだろう。
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2007/5/11


土師百井廃寺跡 Hajimomoihaijiato 

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 土師百井(はじももい)廃寺跡は、白鳳時代に、行基が開いた慈住寺(じじゅうじ)跡とみられ、南大門、三重塔、金堂、講堂などをもつ大伽藍であったと推定されている。今は国の史跡に指定されている。
 土師百井は、鳥取市の南にある霊石山(れいせきざん)の南の山麓にあり、郡家(こおげ)盆地を一望できる景勝地である。
 霊石山を越えると因幡の国の中心、鳥取平野が広がる。古来より交通の要所として発展し、今も鳥取から瀬戸内に抜ける際の岡山方面、姫路方面への分岐点となっている。
 廃寺跡には、直径1.5mの四天柱礎が4つ、側柱礎が12個残り、曼荼羅の中で四仏と四菩薩を配する八葉蓮弁の模様の瓦も出土する。
 土師百井廃寺跡は桜の名所としても知られ、春には敷地内の八重桜が満開になり花見客を誘う。
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2007/4/12


毛越寺庭園 Moutsu-ji-teien Pure Land Gardens at Motsuji Temple

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 東北地方で中尊寺と共に平安時代を代表する寺院、毛越寺の庭園。 
 作者は不明であるが、いたるところに作庭記流の意匠が見られることから、作庭記に精通した者の意匠であることが伺える。広大な池泉を中心として作庭されており、中島が二島、池泉の東南岸に一ヶ所、南側に三ヶ所の出島が作られている。
 大きい方の中島のほぼ正面に圓隆寺金堂址があり、鐘楼址と鼓樓址がある。作庭当初においては、中島から南大門に反り橋を架けてつないでいたという記述があり、このことから寝殿造りの意匠であることがわかる。
 平安時代の庭園遺構の殆どが、石組保存されていないことを考えると、この毛越寺の庭園は、平安期の意匠がよく保存されている。
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2007/3/9


高野山 大門 Kouyasan daimon Daimon of Mount Koya

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 高野山大門は和歌山県伊都郡、高野山に位置する真言宗総本山、金剛峯寺の寺門である。
 高野山全体の総門であり正門。開山当初は500メートル程下の九折谷に鳥居が建てられ、山門のかわりとされていた。
 永治元(1141)年に現在の位置に山門が作られ、二度の焼失の後に宝永二(1705)年に再建された。
 丹塗りの大門は江戸期の大型建築の傑作と言われる。左右に位置する金剛力士像は阿形が康意、吽形は運長の作である。奈良の東大寺南大門の金剛力士像に次ぐ大きさを誇り、共に国の重要文化財に指定されている。
 晴れた日には山門から瀬戸内の海を望める眺望の地でもある。
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